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2013年3月20日 (水)

あとがき(2013/3/15)

✤✤ あ と が き ✤✤

 庭の啓翁桜(けいおうざくら)がいま満開です。彼岸桜に似て花びらが小ぶりですが、びっしりと咲き誇っています。啓翁とは珍しい名前ですが、昭和五年に久留米市に在住の良永啓太郎さんという方が品種改良をして生まれた桜だそうで、その名前にあやかってつけられたということです。

 今年の春は昨年に比べて比較的暖かいようです。ソメイヨシノも早い所では春分の日ごろには咲き出すかもしれません。東日本大震災が起って丸二年が過ぎました。あの時、東北地方は小雪が舞っていました。桜の開花が待ち遠しかったように思われます。依然として行方不明者の遺体捜索が続けられているようですが、遺族にとっては死者にたいして切実な思いがこめられているのでしょうか。ある会社の経営者でありながら経営は部下に任せて、ボランティアで海に潜り遺体捜索を続けている人がテレビで紹介されていました。本人には全く気負いがなく黙々と海に潜っている姿を見て、この人を突き動かしているのは一体何なのだろうかと思われたことでした。傍観的に見れば、被災者の復興支援に尽力した方が良さそうなのにそうはしない。一方では、「葬送の自由を進める会」というのがあって、海(自然)に散骨することを目的とした会もあるのにそうはしない。この人には、生者や死者や物や海(自然)に対する格別な思いがあるのではないかと思われたことでした。

 ところで、大震災を契機として「人間も自然の一部である」ということが、これまでの人間中心的な生き方への反省をこめて語られ出したように思われます。自然と人間という二項対立から、自然の顔を立てているように見えます。しかし本心からそう思っているのかどうか、それは分かりません。自己の主体的意識は温存したまま、一時的に自己反省しているだけかもしれません。人間と自然との関係は、人間にとって、人間の思惑を超えて「恵みと審き」「融和と拒絶」が同居した厳しい関係にあるのだという自覚(直覚)にまで本当に届いているのかどうか。言い換えるなら、慈母のような母なる海は、同時に人間を苦しみのどん底に突き落とす怒れる海であるということ。合理性を追求する近代的知性にとって自然(空、海、地)は、不透明で非合理性そのものとしてあるということも忘れてはならないでしょう。しかも、自然を抜きにして人間の未来像は描けないということも確かなことです。

 このような中で、自然そのものとの対話が成り立った麗しい言葉がありますので紹介します。山中伸弥さんのノーベル医学生理学賞受賞記念講演のひとこま。「自然そのものが師であり、時に予想しなかったことを教えてくれた」。これは、研究の過程で推論したことが全く外れた際の感想の言葉です。科学者としてのあるべき道を示唆しているように思われます。

                                                                                313日(T

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