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2013年1月に作成された記事

2013年1月29日 (火)

『空白を満たしなさい』、平野啓一郎著

会報『希望』投稿

会員田中七四郎

2013/1/29

『空白を満たしなさい』、平野啓一郎著

 ー自殺者年間3万人時代に生きる智慧

 作品は死んだ人が生き返る(復生)社会の話である。主人公土屋徹生は一度死んで再びこの世に生き返った復生者である。彼は自分では自殺した覚えがないし自殺する理由もなかった。結果的には自分が自殺した決定的な証拠が明るみになり本人も納得する。それは自分の中に居る分人のなせる業だった。分人とは作者が提示している用語で、個人は一つの人格indivisualを持つのではなく、対人関係ごとに異なる人格dividualを分けることができるという考え方のことである。個人は複数の分人から成り立って居りそれがごく自然な考え方であるという。その分人の一つが彼を自殺に追いやった。作中、佐伯某という人物(警備員)が出来するがー丁度夏目漱石の絶筆『明暗』に出てくる小林某なる人物、主人公津田由雄の分身?の役回りに近いと筆者は考える。佐伯は土屋徹生の分人と考えられるが佐伯という分人が土屋を自殺に追い込んだのではなく、土屋の中の複数の分人同士が相重なり合って土屋を自死に追い込んだと筆者は推測する。作品は一人の人間が突然自死した場合、残された遺族(連れ合い、こども、両親)、同僚、そして周りの人たちがどんな気持ちをもって生きていくことになるのかということを考えさせられる。自殺対策を政府・自治体による制度面の改革だけから考えるのではなく、人間本来の自発的な動機の面からも考えてみる必要があるという根源的なことを作品は提言している。

 適度なる良い加減さの春の慈雨 烏有

参考文献:『明暗』、夏目漱石、新潮社、1987(昭和62)/6/15\560

『夢違』、恩田陸、角川書店、2011/11/15\1,800

『私とは何か』―「個人」から「分人」へ、平野啓一郎、講談社現代新書、\777

以上。

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2013年1月24日 (木)

あとがき(2013/1/15)

  あ と が き  

寒中お見舞い申し上げます。歳末から比較的寒い日が続いています。ときおり雪に見舞われる日があっても積もる程ではありませんでしたが、今日は屋根に控えめに積もっています。20日が大寒です。正月明けにお腹をこわして一日だけ休養をとりましたが、大事には至りませんでした。皆様はいかがお過ごしでしたか?

 早速、先月の続きにはいります。

A、「出会いとは、ある浄化的場面において、そのじつなにものとも出くわされず、一切が透明な時間となる出来事の世界である。」(「透明な視覚を求めて」)

B、「十全な意味で生きるとは、直接なる世界のような詩的直観を経験することである」(「出会いの現象学序説」)

C、「少なくとも直観の瞬間においては、今の永遠・永遠の今としての限りなく開かれた世界に出会っているのであって、そこはいかなる存在と無の区別もない媒介そのものの世界が広がっていると言える。世界は永遠に世界するのであり、それは出会いの瞬間に体現されるのだ」(「同前」)

 現代の閉塞状況(現象)を突破するため、「出会い」をキーワードにしてまとめを兼ねて李さんの言葉を上げてみたのですが、「浄化的場面」「一切が透明な時間となる」「詩的直観」「今の永遠・永遠の今」「世界は永遠に世界する」という言葉に出くわすと、常識的な対象化思考に慣れている者にとって特殊な神秘的体験(悟り体験)が連想されるかもしれません。しかし、先に李さんの母親の例であげたように、何の変哲もない日常のただ中(平常底)で起っている出来事(直接経験)なのです。身体を媒介にしているとはいえ、たとえば滝に打たれるような肉体的苦行を介しなければ得られないものでもありません。むしろ、自己が世界の外に立って、見るものと見られるものという主客能所の二見分別(常識的な対象化思考)の傍観的立場が破られた(否定された)ところから「体現される」のです。以前に利休と秀吉のエピソードを紹介しましたが、ここでは「A」に照応するでしょう。つまりそれは、茶会の現在的現場で「一切が透明な時間となる出来事」を指し、利休も秀吉も周囲のものすべてが対象化され得ない無の闇に浸透され、ただそこに(あるがままの)花があるのみ。あるいは、そこに(あるがままの)利休と(あるがままの)秀吉がいるのみ。同時に、絶対無の闇(茶席の空間)が「厚みと奥行きをもって」(同前)輝く。しかもそれは、即今・当処での一瞬の出来事・経験(B)であり、花と利休と秀吉が一同に会した「うるわしい出会いの」瞬間でもあります。

 それでは、李さんは現代の閉塞状況の突破口ともいうべき「直観の瞬間」(C)をどのように捉えているのでしょう。普通の常識において、時とは、我々はある時生まれ幾多の変転を繰り返しながらある時死ぬと考えられて、過去から現在を経て未来へと直線的・連続的に流れるものと思っています。それは自我意識の流れを前提し、世界の外に立って、時を観念的、抽象的に分別しているにすぎません。時の原(現)点を素通りにしていては「十全な意味で生き」(B)ているとは言えないでしょう。私たちが「十全な意味で生き」かつ存在していると言うためには、「今ここ」をはずしては成り立ちません。過去も「今ここ」、未来も「今ここ」と、過ぎ去る時と留まる時が矛盾しながら一つに集約されたのが「今ここ」であり、「瞬間」なのだということです。李さんは「瞬間」を「ひろがりをもった時という矛盾概念」(同前)であると言います。すなわち「時間であると同時に空間であり、空間であると同時に時間である地点にひらかれた」「同時性の場所としての出会いの世界」とした上で「直観的瞬間の世界」(今ここ)は、「非対象的に開かれるということで、空間と時間の矛盾的な同時性において開示される無の場所と規定する」のです。「C」において「そこはいかなる存在と無の区別もない媒介そのものの世界」と言われているのはこの「無の場所」のことであり、人間が世界と共に生きる「あるがままの直接経験の場所」であり、厳密には、対象化して見ることのできない「絶対無の場所」であると言わなければなりません。

 いろいろと難しいことを書き連ねましたが、要するに、現代の閉塞状況(現象)の突破口は「いつかどこか」ではなく、「今ここ自己」の根底にあるということです。そうであるならば、一瞬一瞬過ぎ去りゆく「今ここ」にあって、しかも同時に「今の永遠・永遠の今としての限りなく開かれた世界」におかれている私や私たちはどのように生きたらいいのか。李さんはどのように生きて行くのだろうか。

「人間が直接世界におのれを解き放すという出会いに生きるためには、表現作用として構造なる身体をもよおしつづける歴史人に徹底することだろう。歴史人とは、出会いの瞬間に生きる表現者のこと。だから出会いの持続意志は、表現作用による瞬間の持続作用をかりたてずにおかない。歴史人は本質的に表現者である限りにおいて、時間の厚みのなかに生き、その状態を持続するために、構造を生み出さざるをえない。」(同前)

 私たちは誰ひとり例外なく「歴史人」であり「表現者」なのですが、世界の内に世界と共に生きていることを忘れ『万物の尺度の「人間」となる悪い夢をみ』(前出)理念の主となって「いつかどこか」に実現不可能なユートピア(理想郷)を築くことに邁進してきました。その結果、「出口なし」(サルトル)の虚無的状況を招来したと言えましょう。「歴史人に徹底する」ということは、世界の内に世界と共に生きていることを自覚徹底するということです。しかも「今ここ自己」の根底(絶対無・空の場)において、主体的、自律(自立)的自我は滅せられ、無となって(あるがままの自己となって)瞬間、瞬間新しく、どのような実存的状況にあろうとも、生き生きとあるいは黙々と生きるように促されてあるということです。「出会いの瞬間に生きる表現者」とは、李さんのみならず、私や私たちもそうなのです。李さんはその原型を「米を研ぎながら鼻歌を唄っている」お母さんの姿に見たのでしょう。これもまた「うるわしい出会いの瞬間」だったのでしょう。私もまた李さんとは違った形で「うるわしい出会いの瞬間」を重ねたいものです。                  2013118日(T

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「星空に救われた日々」あらき まりこ

「星空に救われた日々」

                  あらき まりこ

  

わたしは20代の頃、肺結核で長い療養生活を送った

ことがあります。その当時は、門司に木造平屋建ての療養所があって、入院の日、輸送車に乗せられて、長い廊下を渡って病棟に着くと、なんだかタイムスリップして、別世界に来たような心地がしたものです。風邪で、なかなか咳が止まらないなと思ってちょっと受診して、念のためにと撮ってもらったレントゲンで、左肺の陰影を発見されました。生まれて9か月の長男をうちに残して、突然の入院でしたから、悪い夢を見ているような、自分でも信じられないような思いでしたが、ただただ悲しくて、子どもに関連したなにかをふっと思い出しただけで、途端に心ががたがたとくずれてしまいそうでした。子どもは、入院の数日前から、不思議と急に牛乳が飲めるようになったことは唯一の安心材料でしたが、病室で止まらないお乳を一人でしぼって捨てる毎日は、かなりわびしいものでした。

心は弱りながらも、ある時から、どうしても治す、しかもできるだけ短期間で治す、と強く自分に言い聞かせて、結核菌に打ち勝つために、摂った栄養は逃さない、うまくからだに吸収させる、という目標を掲げました。だから、「お乳は早く止める」、「薬の副作用で嘔気が来てもからだを刺激しないようにそっとして、取り込んだ食物は吐かない」等、自分のエネルギーを、一心にそこに集中させました。半年の予定で入院して、医師からレントゲン写真のめざましい改善を告げられ、退院を間近に控えたその頃に、病状がなぜか急激に悪化して、退院がポンと数か月先に延びました。結果的に入院期間は1年3か月の長きに渡ったのですが、先延ばしになった時点で気持ちを立て直すのは大変でした。

同じ病室に、わたしと同じように幼い子を残して入院してきた若いお母さんが居て、同じ悲しみを抱えていました。よく一緒に、大判で色刷りの星座の本を見ていたのですが、ある夜、二人で、病棟の重たい木の扉をそっとこじ開けて、外の庭に抜け出ました。空を見上げて星を探しながら、星座の本を懐中電灯で照らして、星の名前を当てっこしました。本の星がそのまま空でみつけられることに、密かに歓喜し、心が躍りました。一人だったら怖かったと思いますが、二人だとすごい開放感でした。その夜から、雨が降らない限り毎晩、秘密の星空通いが始まって、いつのまにか、なんだかわけもわからず、気がつくと心が元気になっていました。暗闇で星をひたすらみつめる行為には、人間を根源的な生に立ち返らせる魔法の力が潜んでいるのではないでしょうか。今でも星空を見上げるたびに、わたしはほんとうにそう思います。

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2013年1月16日 (水)

その訳、ヘン? ―タナカならこう訳す。

会報「希望」投稿

会員田中七四郎

2013/1/16

その訳、ヘン?

 ―タナカならこう訳す。

 がん、医療、IT関係の業界用語で変な?しっくりしない英語訳が気になります。皆様ならどう訳しますか?ご感想、ご意見をお聞かせください。

QOL(クオリティオブライフ、生命の質)⇒人生の気概、やる気、逸る気(タナカ特訳、以下同じ)

CPM(クリティカルパス法、医療の計画表)⇒治療のための工程表

・ピアサポート(対等支援)⇒相励ましあう仲間

・アンチ(サクセスフル)エイジング(抗加齢療法、老化防止)⇒加齢と(共に)生きる

DV(ドメスティックバイオレンス)⇒対弱者暴力、こどもへの体罰

・ジェンダー⇒汎性差

UD(ユニバーサルデザイン)⇒よろず使い(勝手)よいもの

DA(デジタルアーカイブ)⇒デジタル情報の保存蔵(くら)

  訳語では世界の違ふ初日かな 烏有

以上。

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