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2013年1月24日 (木)

あとがき(2013/1/15)

  あ と が き  

寒中お見舞い申し上げます。歳末から比較的寒い日が続いています。ときおり雪に見舞われる日があっても積もる程ではありませんでしたが、今日は屋根に控えめに積もっています。20日が大寒です。正月明けにお腹をこわして一日だけ休養をとりましたが、大事には至りませんでした。皆様はいかがお過ごしでしたか?

 早速、先月の続きにはいります。

A、「出会いとは、ある浄化的場面において、そのじつなにものとも出くわされず、一切が透明な時間となる出来事の世界である。」(「透明な視覚を求めて」)

B、「十全な意味で生きるとは、直接なる世界のような詩的直観を経験することである」(「出会いの現象学序説」)

C、「少なくとも直観の瞬間においては、今の永遠・永遠の今としての限りなく開かれた世界に出会っているのであって、そこはいかなる存在と無の区別もない媒介そのものの世界が広がっていると言える。世界は永遠に世界するのであり、それは出会いの瞬間に体現されるのだ」(「同前」)

 現代の閉塞状況(現象)を突破するため、「出会い」をキーワードにしてまとめを兼ねて李さんの言葉を上げてみたのですが、「浄化的場面」「一切が透明な時間となる」「詩的直観」「今の永遠・永遠の今」「世界は永遠に世界する」という言葉に出くわすと、常識的な対象化思考に慣れている者にとって特殊な神秘的体験(悟り体験)が連想されるかもしれません。しかし、先に李さんの母親の例であげたように、何の変哲もない日常のただ中(平常底)で起っている出来事(直接経験)なのです。身体を媒介にしているとはいえ、たとえば滝に打たれるような肉体的苦行を介しなければ得られないものでもありません。むしろ、自己が世界の外に立って、見るものと見られるものという主客能所の二見分別(常識的な対象化思考)の傍観的立場が破られた(否定された)ところから「体現される」のです。以前に利休と秀吉のエピソードを紹介しましたが、ここでは「A」に照応するでしょう。つまりそれは、茶会の現在的現場で「一切が透明な時間となる出来事」を指し、利休も秀吉も周囲のものすべてが対象化され得ない無の闇に浸透され、ただそこに(あるがままの)花があるのみ。あるいは、そこに(あるがままの)利休と(あるがままの)秀吉がいるのみ。同時に、絶対無の闇(茶席の空間)が「厚みと奥行きをもって」(同前)輝く。しかもそれは、即今・当処での一瞬の出来事・経験(B)であり、花と利休と秀吉が一同に会した「うるわしい出会いの」瞬間でもあります。

 それでは、李さんは現代の閉塞状況の突破口ともいうべき「直観の瞬間」(C)をどのように捉えているのでしょう。普通の常識において、時とは、我々はある時生まれ幾多の変転を繰り返しながらある時死ぬと考えられて、過去から現在を経て未来へと直線的・連続的に流れるものと思っています。それは自我意識の流れを前提し、世界の外に立って、時を観念的、抽象的に分別しているにすぎません。時の原(現)点を素通りにしていては「十全な意味で生き」(B)ているとは言えないでしょう。私たちが「十全な意味で生き」かつ存在していると言うためには、「今ここ」をはずしては成り立ちません。過去も「今ここ」、未来も「今ここ」と、過ぎ去る時と留まる時が矛盾しながら一つに集約されたのが「今ここ」であり、「瞬間」なのだということです。李さんは「瞬間」を「ひろがりをもった時という矛盾概念」(同前)であると言います。すなわち「時間であると同時に空間であり、空間であると同時に時間である地点にひらかれた」「同時性の場所としての出会いの世界」とした上で「直観的瞬間の世界」(今ここ)は、「非対象的に開かれるということで、空間と時間の矛盾的な同時性において開示される無の場所と規定する」のです。「C」において「そこはいかなる存在と無の区別もない媒介そのものの世界」と言われているのはこの「無の場所」のことであり、人間が世界と共に生きる「あるがままの直接経験の場所」であり、厳密には、対象化して見ることのできない「絶対無の場所」であると言わなければなりません。

 いろいろと難しいことを書き連ねましたが、要するに、現代の閉塞状況(現象)の突破口は「いつかどこか」ではなく、「今ここ自己」の根底にあるということです。そうであるならば、一瞬一瞬過ぎ去りゆく「今ここ」にあって、しかも同時に「今の永遠・永遠の今としての限りなく開かれた世界」におかれている私や私たちはどのように生きたらいいのか。李さんはどのように生きて行くのだろうか。

「人間が直接世界におのれを解き放すという出会いに生きるためには、表現作用として構造なる身体をもよおしつづける歴史人に徹底することだろう。歴史人とは、出会いの瞬間に生きる表現者のこと。だから出会いの持続意志は、表現作用による瞬間の持続作用をかりたてずにおかない。歴史人は本質的に表現者である限りにおいて、時間の厚みのなかに生き、その状態を持続するために、構造を生み出さざるをえない。」(同前)

 私たちは誰ひとり例外なく「歴史人」であり「表現者」なのですが、世界の内に世界と共に生きていることを忘れ『万物の尺度の「人間」となる悪い夢をみ』(前出)理念の主となって「いつかどこか」に実現不可能なユートピア(理想郷)を築くことに邁進してきました。その結果、「出口なし」(サルトル)の虚無的状況を招来したと言えましょう。「歴史人に徹底する」ということは、世界の内に世界と共に生きていることを自覚徹底するということです。しかも「今ここ自己」の根底(絶対無・空の場)において、主体的、自律(自立)的自我は滅せられ、無となって(あるがままの自己となって)瞬間、瞬間新しく、どのような実存的状況にあろうとも、生き生きとあるいは黙々と生きるように促されてあるということです。「出会いの瞬間に生きる表現者」とは、李さんのみならず、私や私たちもそうなのです。李さんはその原型を「米を研ぎながら鼻歌を唄っている」お母さんの姿に見たのでしょう。これもまた「うるわしい出会いの瞬間」だったのでしょう。私もまた李さんとは違った形で「うるわしい出会いの瞬間」を重ねたいものです。                  2013118日(T

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