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2012年12月30日 (日)

会報希望、270号、2012/12/15発行

ちいさな ゆき

(まど・みちお少年詩集「つけもののおもし」p.8586,小海永二編,ポプラ社文庫より引用)

             

まど みちお                                         

  

ちいさな ゆきが

ちらりん ひとつ

ひとさしゆびに おりてきた

ひとさしゆびの ゆびさきに

てんの つかいのように して

ちいさな ゆきが

ちらりん ひとつ

ひとさしゆびで きえちゃった

ひとさしゆびの ゆびさきで

てんの ようじは いわないで

    事 務 報 告

1222日(土)事務局西安寺にて世話人会開催。会報「希望」第270号製本発送。

◇会報への投稿や製本のお手伝い等をして下さる方は、事務局までご一報ください。

あなたらしく生きる    

  あ と が き  

暮れも押し迫り21日に冬至を迎えます。落葉も終盤にきたようです。総選挙も終わり支配者の首のすげ替えが行われたようですが、残念ながら前政権同様にあまり期待しない方がよさそうです。不可避の想定外の事が起きた時、事の重大さに戸惑い右往左往して途中で政権を投げ出さないことを祈るばかりです。

 早速、先月の続きにはいります。人間が中心となり、「理念」が支配する近現代の自然(世界)観は、万物の創造者としての神の座に人間の理性(知性)が居座っただけの話で、人間の主体的意識が支配する対象界としての現象界にすぎなかったわけです。人間の主体的意識を越えて独立に自律(自立)・自存する世界(自然、他物、他者)自体との直接的関係が軽視ないし無視・無化されて一方的に見る者として世界に君臨した結果、その未来像(ユートピア)は虚像となって実像とならない悪夢ばかりを見ることになりました。過去から引きずってきた負の遺産の処理を巡り、右往左往して出口が見出せない現在、逼塞状況はますます強度を増して悲観的な未来像しか描けないとしたら、虚無的な意識の中に閉じこもり生きる意味を失って、一時的な憂さ晴らしをするか、単調な日常の繰り返しに埋没するしかないのだろうか。こういう思いは、突然末期がんを告げられ、絶望のあまりヤリ場のない怒りと苦しみを誰にぶつけていいのか解らない思いと均質のものがあるのではないでしょうか。李さんは、この疑問に遭遇するたびに「米を研ぎながら鼻歌を唄っている」お母さんの話が思い出されたのではないかと思われます。このエピソードは、李さんの芸術観にも直結しています。

 傍観(対象)的に見れば同じことの繰り返しをしているに過ぎないが、鼻歌を唄っている母親の返答は「米を研ぐ感じは同じではない」ということでした。すなわち外の世界からの作用によって身体は、一瞬一瞬異なる反応を示すということでした。それは、「人間が、世界を知覚するということは、身体が世界においての共感、実感、違和感をおぼえる世界の媒体」(「出会いの現象学序説」)という「身体」の発見でした。その「身体」が内(意識、内的世界)と外(存在、環境世界)との媒介項であり「身体が世界を知覚する仕方こそが、観合うこと、感じ合うことの直観においてであり」「この場合直観とは、眼よりも速く見、手よりも深く触れ合う、そこにおいての世界と人間の同時性の自覚、身体が世界と自己を同時に媒介する出会いのことである」(同前)ということでした。先に、李さんは「解る」と「知る」を区別した上で「解ると知るとの重なり合いや、組合せの中に生きる自覚こそが、生を真に豊かで輝かしいものにしてくれよう」と言いました。再度、繰り返すなら「解る」とは身体で直接に解ること(体解)であり、受動的、無形的、非対象的であるということでした。「知る」とは対象的に知ること(知解)ことであり、能動的、有形的、対象的であるということでした。ここで注意を促しておくならば、「解る」と「知る」を区別し、身体がそれを媒介するといっても、非対象的世界(形而上学的実体)と対象的世界があらかじめ実体的・孤立的・二元的にあって、身体がその両者を媒介するということではありません。「解る」とは「不会の会」・「不知の知」・「不見の見」ということであり、「非対象の対象」に直接触れるということで、見るものと見られるものが同時に成り立つ世界です。ですから、「世界を認識の対象として思うのではなしに、あるがままの直接経験の場所として、自己の身体がそのなかにおいて世界と一体感や違和感を呼び起こすとき、意識の状態はまさに自覚にあるのだ。人間が自己の存在を確認するのは、志向性においてよりはるかに、こうした出会いの自覚性においてである。あるがままがあるがままを限定する世界における、人間の独自な肯定の仕方」「身体の媒介性によって、世界は直接経験の場所となり、その知覚の自覚性において、人間は真に開かれた世界に出会うことになる。」(「出会いの現象学序説」)。

 「あるがままの直接経験の場所」「「真に開かれた世界」とは、世界の内(ひと、もの、ことが右往左往する現象世界)にあって、同時にそれを超え包む非対象的な「絶対無の場所」(西田幾多郎)、無限に開かれた「空の場」のことです。いわば、世界は二重構造になっていて、これこそが「あるがままがあるがままを限定する」真の現実世界です。人間が世界と共に生きる真の場所です。対象的に見られた現象世界はどこまでも「虚像」であるほかなく、「あるがまま」の世界ではないということです。また、「あるがまま」とは李さんによれば「隠れなきさまにおいてあらわれ出てくるありよう」(ハイデッガー)であり、今ここの自己の「直観における世界の現象であって、単なる対象としての事実の輪郭を指すものではない」ということです。対象的事実にあって対象的事実を超えている、直観的世界のあるがままです。言い換えるなら、今ここの自己の根底(絶対現在、絶対此岸)において、「自己ならざる自己」(真の自己)が「対象ならざる対象」(未知の対象)に直接出会うということです。たとえば、李さんの詩「笑いを」を一例にあげることができるでしょう。偶然通りかかった未知の子供の笑いが余程うれしかったのでしょう。足許の小石にもその笑いをつなごうということですから。それは同時に世界の笑いです。世界の内にあって、世界を超えた笑いであることは申すまでもありません。

 さて、明日は冬至で、そのあと寒波襲来とか。「出会い」についてあと少し書き継がなければなりませんが、年越しとなりました。一月号で終わりにしたいと思います。事柄が事柄だけに難解な物言いに終始していますが、閉塞状況を突破するためにはどうしても書いておかなければならないと思っています。御容赦下さい。                    20121220日(T

北九州がんを語る会

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