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2012年10月25日 (木)

ブログ「希望」2012/10月号

相 談 窓 口 の ご 案 内 

1.がん こころの電話相談リンクス   北九州がんを語る会

曜   日

相 談 時 間

電 話 番 号

   第一 土曜日

13時~14時

090-7479-8022

   

※ 相談には、専門医があたります。

「電話相談リンクス」は、専門医と連携して、患者・家族の相談を受ける

市民グループです。相談は無料。プライバシーは厳守します。

       ご遠慮なく「リンクス」をご利用下さい。

              リンク=link(英)、鎖の輪、環、動力の伝達装置、連絡道路

2.がん相談      がん拠点病院相談支援センター

※ 国立がんセンターでの研修を修了した相談員が配置されています。

北九州市内の病院名

相談の曜日・時間

電話番号

北九州市立医療センター

月~金 8301700

093-541-1831

九州厚生年金病院

月~金 9001700

093-641-9715

産業医科大学病院

月~金 8301700

093-603-1611

戸畑共立病院

月~金 9001700

093-871-5421

3.「ホスピス110番」   社会医療法人 栄光会 栄光病院

    TEL:092-935-0147(代) 「ホスピス110番」と申しつけください。

    月、水、金曜日(午後3時~4時)

    予約受付:月曜~土曜(午前10時~午後3時)

     希望者は、患者、家族誰でも末期医療全般について相談できます。(無料)

93歳の今、思い出すこと」

                            

沖 ヤス子

その1-ふるさと 

私は、大正八年十二月十五日に、佐賀県東松浦郡厳木町というところで、

四人兄妹の末っ子として生まれました。一番上の兄が十歳の時のことです

が、私が生まれて半年後に、父は心臓病で急死したそうです。その父の写

真が一枚だけ残っていたのですが、それは父が徴兵検査を受けた時、母の

兄と一緒に写った写真だと聞きました。近所の人から西郷隆盛と呼ばれる

ほど、きっぷのよい、どっしりした人だったそうです。大きくなってから

その写真を見てもああ、これが父なんだと思うくらいで、何の感情も湧き

ませんでしたが、今になって、時々その写真が見たいなあと思います。

 私が生まれたところは、農村で、本当に田舎でしたが、それでも国道筋

にありました。笹原峠というところで、家から歩いて十分くらい行くと峠

の頂上で、それから先は下り坂でした。峠には関所があって、関所をはさ

んでこちらの村と向うの村に分かれているのですが、そこには両方の村の

茶店がそれぞれ一つずつありました。隣同士の村でありながら、それぞれ

の村人の言葉使いが違うので、その頃はそれが不思議でなりませんでした。

その言葉使いについては、昔からの言い伝え話が一つあります。ある日、

殿様が向うの村の茶店で羊羹をくれと言ったら茶店の人が「なぁーい」と

返事をして、でも店には羊羹がいっぱい並んでいたので、無いとは何事か、

と殿様はえらく立腹なさったそうな。向うの村の人たちは「はい」という

ことを「なぁーい」ということばであらわすので、そういうまちがいが起

こったのです。この話をよく村の年寄りから聞きました。向う村の人は、

あっても、ないって言うことばを使うことを、私たちは他の人から聞かれ

るたびにそう説明しました。

    その2-母のこと

 母の仕事は豆腐屋でした。父が居る時には小間物屋さんだったそうです。

小さい頃、引き出しを開けると、下駄の緒や灯心がたくさん出てきたりし

ました。そんなものを使って、一日中お店屋さんごっこをして友達と遊び

ました。雨が降る日は母が部屋に蚊帳をつってくれました。麻で作った蚊

帳には雷が落ちないといわれていたからです。昔は雷がほんとによく鳴っ

ていました。私は蚊帳の中で遊ぶのが何となく面白くて、母が帰るまで飽

きずに、その蚊帳の中でままごとをして遊びました。

 六歳になると、私は厳木町尋常高等小学校に入学しました。入学式の日

にも母は朝早くから仕事に行って、走ってうちに帰ってきて、大急ぎで私

によそ行きの着物を着せました。そして私の手をとってピュッと走って学

校に行きましたが、もう式が始まっていました。私は母にしっかりつかま                                                        

っていましたが、母の胸からぴゅんと離れて列の一番後ろに並びました。

その日のことは今でもはっきりと覚えています。先生に手を引かれて教室

に入った時は嬉しかったです。

 母は、仕事に行く前に姉ちゃんと私の髪をきれいに結ってくれました。

時々、私には牛若丸のような頭が似合うと言って、頭のてっぺんに、白い

紙の幅広の水引を使って、めがねのように髪を結い上げてくれたりしまし

た。私は嬉しいやら、恥ずかしいやら、複雑な気持ちだったのですが、で

も嫌だとは言いませんでした。恥ずかしいけど、心の中はなんだかほくほ

くして嬉しかったからです。

 姉ちゃんは小さい頃から病気がちで学校をよく休んでいました。私が三

年生になった頃、姉ちゃんが私も学校に行きたいと泣き出したことがあっ

て、それからはよく、私がおんぶして学校に行っていました。一時間ほど

かかる道を姉ちゃんをおんぶして、道草したりしながら学校に着くと、姉

ちゃんの担任の優しい先生が、大変喜んで迎えてくれました。帰りは姉ち

ゃんの方が三十分遅れるからと、その先生から教室で待っているように言

われました。そんな先生の優しい様子が本当に嬉しかった…。「姉ちゃん

が帰りますよう」と先生に言われて迎えに行くと、時々先生が美しい折り

紙を下さることもありました。

 ある日、姉ちゃんと二人で学校の門からとんとん降りていたら「おう、

お前たち」と、笑顔いっぱいの母に出会いました。学校の門は横幅が広く

て五メートルほどもありました。母は「なんかこうてやるからおいで」と

そのまま二人の手を引いて「綿屋」という店に行って、二人に日傘を買っ

てくれました。その頃日傘が流行していて、日傘を開くと美しさがいっぱ

いにひろがっていました。姉ちゃんのは菊の花びらがいっぱいの模様で、

私のは馬が三頭走っている絵が描いてありました。くるりっとまわせば三

頭の馬が走り出します。二人でララランランランと飛び跳ねながら歩きま

した。二人を見る母の顔は最高に美しく笑顔いっぱいでした。また別の寒

い日にも偶然に校門のところで母に出会って、その時にも姉ちゃんには首

巻を、私にはマントを買ってくれました。姉ちゃんの首巻はオレンジ色の

模様入りで、私のマントは緑色でした。その時の嬉しさも格別で、この歳

になって、今思い出しても涙が出ます。校門で母に出会ったのはこの二回

きりでした。(次号につづく)

工藤直子作「のはらうた」童話屋p.3637より引用)

はなひらく

             のばらめぐみ

  はなびらと

  はなびらと

  はなびらの あいだに

  のはらの わらいごえを

  すこしずつ

  すこしずつ

  すこしずつ ためて

  ちいさな ばらのつぼみが

  ほんのりと

  ほんのりと

  ほんのりと めをさまし

  はなひらく 

    事 務 報 告

1020日(土)事務局西安寺にて世話人会開催。会報「希望」第268号製本発送。

◇会報への投稿や製本のお手伝い等をして下さる方は、事務局までご一報ください。

あなたらしく生きる    

  あ と が き  

十月も半ばを過ぎて昼と夜の寒暖の差が大きくなったようです。八日が二十四節気の寒露(かんろ)でした。裸足で芝生の上を歩くと、直接に朝露が冷たく感じられます。時々刻々と私の身体を通して直接に、外の世界とともに生きたり死んだり、死んだり生きたりしているのだということを実感させられます。

 さて、先月の続きに入ります。李禹煥の存在は30年以上前から知っていました。ただ最近グローバル化してきた政治的、経済的、社会的混乱が末期症状の様相を呈してきているのは誰の目にも明らかであり、これをどう受け止め乗り越えるかを考えた時、李さんの存在は結構大きいのではと考えるようになったわけです。1956年20歳の時に横浜在住の叔父さんを頼って初来日して以来、日本に定住して本格的に哲学と絵画の勉強にいそしみ、経済的にも困難な美術作家の道を選びました。当時、韓国は軍事独裁政権下にあり、当然日韓関係はぎくしゃくしていて、現在の竹島問題などとは比較にならないくらい、お互いに困難な問題をかかえていました。そのような状況の下で独自の道を歩んできた人ですから、彼の発言には相当の重みがあるように思われます。

 はじめは美術評論家として登場したようですが、彼のエッセイ集を読むまでそのことは知りませんでした。1980年前後、とある画廊で彼の「点より」、「線より」シリーズの作品を見たのが最初でした。前者は、左から右に規則性を保ちながら画面いっぱいに点を連ねただけのもの。後者は、上から下へ途中でとぎれた線を引き、同じく左から右へ反復させただけのものでした。当時は具象絵画にだけ惹かれていたので、印象としては不思議だなあという程度のものでした。その後、「風とともに」「風より」シリーズが描かれますが、画面いっぱいに線が乱舞した作品です。これらは彼の画集で見ただけです。また、福岡市立美術館のロビー外庭に自然石を組み合わせただけの彫刻(?)作品がありますが、その存在を知ったのはごく最近のことです。

北九州がんを語る会

事務局 〒803-0851 北九州市小倉北区木町2-12-34

西安寺 玉水秀孝()TEL093561-5320

HPアドレス

http://ctnk7460.cocolog-nifty.com/nozomi/

(会費振込先)口座番号01760-1-83497

加入者名 北九州がんを語る会

郵送の場合は、玉水へ

 「点より」「線より」シリーズは、絵画における最小限の要素を使った絵面で、絵画の原点を追求したものだということは誰の目にも明らかですから、今になって思うと素直に受け入れられ、長い間私の記憶に焼きつけられたのでしょう。また、「風とともに」「風より」シリーズは彼の文章を通じてではありますが、絵面に外の空気(風)を持ちこんだものだということも理解できます。1990年代に入ると「照応」シリーズがはじまり、絵面に「点より長く、線より短い」筆痕を残しただけの、大胆に余白を取った作品が現れます。以後、「照応」シリーズはカンバスも大きくなり十年以上に亘って描き続けられています。以前、とある画廊で絵を見に来ていた美術愛好家が(その時は別の抽象作家の展覧会だったのですが)「このごろの李禹煥の作品は空白だらけでインチキではないか、ツマラナイ」という感想をもらしていたのを記憶しています。その時はなにげなく聞き流していたのですが、この空白ならぬ余白が李禹煥の芸術にとって重要なカギを握っているのを知ったのは「出会いを求めて」(20008月美術出版社)、「余白の芸術」を読んでからでした。以下、次号。

10月16日 (T

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コメント

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Harriet D. Knop

投稿: Harriet D. Knop | 2012年10月30日 (火) 18時12分

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