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2012年9月21日 (金)

あとがき(2012/9/12)

    事 務 報 告

◇915日(土)事務局西安寺にて世話人会開催。会報「希望」第267号製本発送。

◇会報への投稿や製本のお手伝い等をして下さる方は、事務局までご一報ください。

あなたらしく生きる   

  あ と が き  

八月の終わりごろから朝・晩が急に涼しくなってきました。時に、日中はまだまだ暑い日もありますが、秋雨前線の影響で天候不順の日々です。睡眠を十分に取って夏の疲れを徐々に取りたいものです。

 七日が二十四節気の白露(はくろ)でした。朝早く起きて庭の芝生の中に生えた雑草を抜こうとすると、抜く手がじっとりと濡れてしまいます。季節の変化に敏感なのは人間だけではないのだということを実感させられます。また、拙寺の境内に住みついて5年以上にもなる野良猫の「みや」ちゃんも季節の変化に合わせて衣替えをしています。初夏から盛夏にかけて食欲もあまりなくやせてみすぼらしくみえましたが、最近は食欲も増し、抜け毛も止まって寒さ対策は怠りなしです。

李禹煥さんの少年時代の思い出に次のようなエピソードがあります。「幼い頃ぼくは、米を研ぎながら鼻歌を唄っている母に尋ねた。そんなにいつも同じことばかりしてどこが面白いの? 母は笑いながら言った。やっていることは同じことに違いないが、米を研ぐ感じは同じではない。水の冷たさで気持ちが引き締まる時もあれば、鳥の鳴き声で調子がつくこともある。米と水と手の息がぴったり合うこともあるし、おじいさんの怒る顔でメチャメチャになったりもする。どちらにしても私はこの米研ぎの繰り返しの中で生きなければならないからね。大きくなりながら、ぼくはこの時の母の話をどれだけ噛みしめたかわからない。」

このエピソードは「同一性と差異性」(『余白の芸術』)というむずかしい題のエッセイの中で語られているのですが、作品を作るにあたって「頭の中に出来上がったイデーの再現を目指」さす(同一性)のではなくて、「どのようなものを作るかは予め決めてあっても、制作の現場ではいろいろな外部性が作用して、どうしてもズレてしまいがちである(差異性)。現場の感覚は、関係性の生きもの」だという李さんの作品制作の原点(現点)として語られているのです。このエッセイにはもともと理詰めで理論武装し、世界(他者、他物)との関係性を欠いた観念的で独りよがりのオブジェ作品が量産されている現代美術のありかたへの批判がこめられているようです。しかもこの李さんの批判は、洋の東西を問わず混迷している現代社会への批判も射程内に入っていて傾聴すべきものが多々あるように思います。あらかじめ構想された理念は現実によって改変を余儀なくされ、厳しい現実は、壮大な理念の構築物を想定外と言わしめて軽々と越えて行く。現実は非同一的現象として現象し、あらゆる「もの・こと」を対象的に見、聞き、考え、自我意識の内側から分別判断する自我中心主義者にとって、当初、頭脳の中で構想されていたプランは仮想現実(虚像)にすぎなかったということを思い知らされることになります。由々しきことではあります。以下、次号。

今月から世話人の新木真理子さんが井上佐代子さんに代わって、会報の編集とコピーを担当して頂くことになりました。どうぞよろしくお願いします。

9月12日(T

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