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2012年6月26日 (火)

回想「回復句」100 ーアラコキや思へば遠くへ来たもんだ

会報「希望」投稿

回想「回復句」100 ーアラコキや思へば遠くへ来たもんだ

2012/6/21

会員 田中七四郎

 平成5(1993)年夏、会社勤めのバリバリが突然胃がんを発症した。論語で言う天命を知る年(50歳)であった。入院する予定の日連れ合いの母を亡くした。義母を見送りそのまま市立医療センターへ直行、入院、手術と無事成功(胃の4/5を摘出)し、2ケ月後には退院できた。その後何とか職場復帰できたが後遺症には悩まされた。特に食事中一口でも閾値を越えるとダンピング現象となって跳ね返ってきた。残された胃の1/4部分と腸が共同作業で食べたものを一生懸命咀嚼しようと頑張っているのだが宿主の食べる量のスピードに追いつけず痙攣を起こして苦しくなるのである。そのときは家族から背中を叩いてもらったり戻したり痙攣が止むまで唯ひたすら横になって死んでいた。最近は大分馴れてきたがいまでも好物のソーメンなどを食べている最中に急にしゃっくりが止まらなくなって苦しむ。自己責任であるのであきらめているが対処方法は食事は腹6分目で少しづつ慎重に食べる、完璧を期さない、危なくなったら直ちにストップする、残すことも辞さない、など分かっているのだが戦中生まれの性で食い意地が張った習癖は今でも直らない。その都度吾ガ分身(臓器)の復元力、けなげさには感謝、感動、そして何よりも愛おしい。社会復帰してリハビリ1ケ月後の回復句1http://homepage1.nifty.com/tanakas/kaifuku1.htm)は、術後初めての四国への34日の旅であった。がん(後遺症)と同行二人のタナカ流遍路旅であった。恐る恐るであったが生きていく自信につながった。「復元の自信ついたり金刀巴羅参り」烏有。術後初めて海外へ行くことができたのは4年後の中国長江上り(三峡ダム)であった(回復句4)石を抱いて汨羅江(べきらこう)に入水自殺したといわれる詩人屈原の生まれ故郷秭帰では、「屈原の沈む思いや秭帰の春」烏有、が詠めた。その後、中国大陸には、海南島(回復句9)、南京/蘇州(回復句16)西安/北京(回復句22)、大連/旅順(回復句26)、塘沽/天津(回復句27)などと大陸定点観測と称してたびたび訪れることが出来た。術後6年目の誕生日には、会社出張中、屋久島の旅館で突然腸閉塞に襲われ深夜緊急にパトカーで運びこまれて死ぬ目に遇った(回復句6)。連れ合いが小倉からびっくりして飛んできて1週間島の病院でお世話になった。二人で飛んだ記念?のハッピーバースデイとなった。術後10年目は60歳の耳順う年、そのときの感慨は回復句19で「がんで死ぬばかりではなし返り花」烏有、と詠んだ。「それでも私は、最期はがんで死にたい。」と著した。術後15年目は初めて連れ合いとクメール巡礼(カンボディア)へアンコールワットへ行くことができた(回復句44)。「連れ合ひの影を踏まずに祈り旅」烏有。さて来年は術後20年、古稀、歳70。アラコキ(アラウンド古稀)の今年にプライベートな回復句が100も達成できて素直に喜んでいる。孔子の一生では70歳は「心の欲する所に従いて矩(のり)を踰えず」という。その心境にはほど遠いが、自分の甲羅に似せた穴をこれからも掘り続けて行くしかない。毎日を世界一短い小説である「駆けっ句365日生き急ぎ」を一日1句死ぬまで紡ぎ続けていこう。さいごに吾ガ生みの両親、育ての両親、そして連れ合いの両親に感謝、合掌。

 アラコキや思へば遠くへ来たもんだ 烏有

参考url: http://homepage1.nifty.com/tanakas/uyuu.htm

以上。

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