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2011年10月に作成された記事

2011年10月24日 (月)

あとがき(2011/10/15)

        事 務 報 告

917日(土)事務局・西安寺にて世話人会開催。会報「希望」第255号製本発送。

あなたらしく生きる

  あ と が き  

今日は秋晴れの好日。朝は肌寒く、芝生は露をたっぷりとたくわえていました。まばらに落ちた銀杏の葉を掃くと、土がべっとりとこびり付いてきてやや重く感じられます。

 十月九日は、二十四節気の寒露と旧暦の九月十三日(十三夜・後の月)が重なりあいました。秋は盛りに見えますがもう晩秋に入ったのです。子供のころ、栗とさつまいもを三方に盛って月見をしていたことが懐かしく思い出されますが、今にして思うとあれは中秋の名月ではなくて十三夜だったようです。中秋の名月のころは時期的に台風襲来の季節でもあり無月が多く、また地域柄暑くもあり、栗やさつまいもの収穫はまだ早かったのです。十三夜のころになると夜は肌寒く暖かい食べ物が恋しくなる季節でもあります。栗やさつまいもはコメより一足早く訪れる秋の贈り物だったのでしょう。

母が煮る栗あまかりし十三夜    能村 登四郎

 

さて、晩秋ともなると一日中の温度差が10度以上になることも稀ではありません。まだ暖房機器を入れるほどでもないし、着る服で調節するしかありません。夜具も同じです。これは昔からそうだったのでしょう。この時期の微妙な寒さに対する感受性の多様さ・鋭さを知るには俳句歳時記が一番でしょう。今回は長谷川 櫂さんの「日本人の暦」(筑摩書房)と「俳句歳時記 新版」(角川書店編)に拠ることにします。

【秋】秋寒(あきさむ)、そぞろ寒、やや寒、肌寒、うそ寒、朝寒、夜寒(よさむ)、かりがね.寒、冷やか、身に入む(みにしむ)など。以下、私の眼にとまった句をどうぞ。

秋寒くなりゆく竹を愛すなり  角免 栄児(竹は秋に盛りを迎えるらしい)

雲二つに割れて又集るそゞろ寒  原 石鼎(膚に感じる秋の寒さ)

朝餉なる小かぶがにほうやゝ寒く  及川 貞

肌寒や妻の機嫌子の機嫌  日野 草城

  うそ寒の水銀玉となりたがる  和田 悟朗

  朝寒や妻病んで皿かく多し  遠藤 とみじ

  母とわれ夜寒の咳をひとつづつ  桂 信子

  鴈や残るものみな美しき  石田 波郷(鴈は晩秋の渡り鳥)

  冷えきりて贋福耳や四十過ぐ  森 総彦

  野ざらしを心に風のしむ身かな  松尾 芭蕉

  家にゐて旅のごとしや秋の暮  長谷川 櫂

最後に番外編ですが、十月十三日に急逝された辱知の先達・今村元市先生を偲んで歌集「天籟」(2010年1月1日発行)より、

生きてあり睡蓮の花の白きが台風過ぎし泥池の中に  今村 速男

10月20日 (T

北九州がんを語る会

事務局 〒803-0851 北九州市小倉北区木町2-12-34

西安寺 玉水秀孝()TEL093561-5320

HPアドレス

http://ctnk7460.cocolog-nifty.com/nozomi/

(会費振込先)口座番号01760-1-83497

加入者名 北九州がんを語る会

郵送の場合は、玉水へ

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駆けっ句365日生き急ぎ(神無月の巻)

「駆けっ句365日生き急ぎ」

烏有

烏有(ウユウ)

本名:田中七四郎(タナカシチシロウ)

1943年(昭和18年):10月、

東京都渋谷区

1968年(昭和43年): 4月、 富士通株式会社入社、システムエンジニア職従事

1993年(平成 5年): 1月、 駆けっ句スタート   8月、 胃がん手術

2000年(平成12年):12月、 富士通株式会社役職離任により退社

コーポレイトソフトウェア株式会社入社

2002年(平成14年): 7月、コーポレイトソフトウェア株式会社退社

神無月ノ巻

神無月某日・旧道は行き止まりなり秋の風

神無月某日・眺望をながめすがめつ秋高し

神無月某日・朝冷しすずめ小走り餌を捕る

神無月某日・悠々としてつましく暮らす10

神無月某日・ひねもすや夏の疲れを雨が癒り

神無月某日・爽やかや余力残して峠越ゆ

神無月某日・にぎにぎし打ちこぼれたる萩の道

神無月某日・はんなりとあたりにたたずむ芙蓉かな

神無月某日・厳かに秋霜烈日に頭垂れ

神無月某日・銀杏やカラスが落とすを吾レ拾ひ

神無月某日・秋冷や金木犀の香り未だ

神無月某日・松並木筑前六宿に秋の風

神無月某日・街道を木犀の香そこはかとなく

神無月某日・もず啼くや笙の笛音に和諧して

神無月某日・大小の松ぽっくりを蹴まりする

神無月某日・新米のお供へ光る白さかな

神無月某日・天高し羊群原をひとのぞみ

神無月某日3億の永きにわたり秋の風

神無月某日・栗飯や家族にそろって祝はれし

神無月某日・すすき野を風に吹かれて風化する

神無月某日13夜追っかけひとり酌み交わす

神無月某日・こはごはと鬼門の月をやり過ごす

神無月某日・観月会無月をなぐさむ杯一献

神無月某日・喧騒にまぎれて酌まむ秋麗ら

神無月某日・さかさ森水の澄みたるとんぼ池

神無月某日・朝つゆのしとどに濡れにしつり舟草

神無月某日・秋澄むや不知名の草に日の当たり

神無月某日・秋日なか蜘蛛の織りなす網ひかる

神無月某日・ほつほつとこむらさきのつやめきし

神無月某日・秋の園よめなすずむしふじばかま(つづく)

http://homepage1.nifty.com/tanakas/uyuu.htm.

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例会報告

平成2310

会世話人 吉武 昌子

 空を見上げると、いわし雲が広がり夕日も山の草木も綺麗に色付いていく季節となりましたね。

 秋刀魚、栗、きのこ、柿、スーパーの食料品も美味しいものが沢山、並んで…

目にも舌にも、愉しい秋です。

ただ困ったことに日中は汗ばむ日もまだあり、服装選びに仕事前から頭を使い悩んでいます。

例会 910日(土)14時~ 西安寺にて

産婦人科診療所 マ・メール 医院長 池田信子先生による

「さあ 笑いましょ」

 15名の参加者に囲まれ、池田先生は辛かった過去を想い帰しながら、体験談を語る事で皆さんと想いが共有できればと、語って下さいました。

 物腰・口調・表情もとても柔らかく、とても親しみ易さを感じた…先生の第一印象でした。その表情の裏には、これまでの人生・病との闘いの過程を一つ一つ確実に自力で乗り越えてきたから自然にオーラとして出ている感じがしました。

 24歳の時に卵巣の病気を発症され、祖母から「自分の病気は、自分で治しなさい」と、言われながら、子供が産みたい…この願いが辛い闘病生活の原動力になりました。お父様と同じく、産婦人科医となり24時間・365日のいつどこで呼び出しがかかるか分からない、過酷な勤務が始まりました。

大学病院2年目に、妊娠されて出産・育児。就職先探しは、お父様も一緒になって探してくれ総合病院に勤務。仕事と家庭の両立に苦心されながらも、70歳のお父様が営まれていた病院で、患者が一日2,3人で今にも潰れそうな状況の中、親しみ易く面倒見の良いお父様を頼って通院する患者さんの為にも先生は、5件の病院を掛け持ちしながら手伝われました。産婦人科医が女医さんだと、患者さんも掛かり易いと病院も活気を取り戻しはじめて来た頃、離婚をされ、娘さん2人を育てながらも寂しさと経済的負担という重圧と、戦われました。

ある日、公衆浴場で右手の神経損傷という大怪我をしました。

医者としての復帰も危ぶまれ、私生活の重圧と…いつしか、お酒に手が伸びてしまい、深酒の日々が始まりました。

この時期に、お父様がすい臓がんになられました。

気丈なお父様が、お酒に溺れる先生に一度だけ怒鳴られた言葉。

「すい臓がんの、この痛みが解るか!」。それでも、断てなかったお酒。

やがてお父様も他界され、娘さんから精神科の受診を勧めら心のリハビリを

開始。辛く、永い、2度目の闘病…

ある日、お父様の仏壇の掃除をしていた時に「信ちゃん、お酒を止めてごらんよ。お酒を止めたら、楽になるよ」と書かれた、お父様の走り書きのメモを見付けられたそうです。これが機で、先生もお酒から遠のいていけることが出来ました。

お母様との間にもわだかまりがあり、何度もぶつかり合い喧嘩してきた事で、仲が深まったそうです。

お母様も乳がんを発症されましたが、病を通して人のありがたみを感じられる様になり、プール教室で悩みを共感できる仲間を得た事で「一人じゃない」と、

思えるようになったそうです。

お母様の姿を見ながら、先生自身も大きな壁を乗り越えられた時、一日一日を大切に過ごしもう一度、初心に返り日々を大事に生きていこうと思うようになったそうです。

お父様の事を語る時、何度か声を詰まらせた先生…きっと大好きなお父様で、同業者としても尊敬をしていたのだろうな…と、感じました。

お父様は、大正13年生まれ。85歳で他界されました。

中国で終戦を迎えたお父様は、帰国後に医者に。お父様と患者さんが話している姿を小さな頃から見ていた先生は、あの姿が自身の財産になっていると言われます。

偉大なお父様と家庭を守っていたお母様に対する反発。先生自身、自分を出せない性格なため壁にぶつかる度に、お酒に溺れて立ち向かう事から逃げていた。お父様が亡くなってからは、気が楽になった。とも、お話しくださいました。

弱い自身の辛い経験も、包み隠さずに語られて先生。きっと、マ・メールでも親身に患者さんに寄り添い、共に共感しながら闘病の糧となる診察をされているのだろうと思いました。

どん底から自力で這い上がってきたからこそ、今となっては笑って話せる過去。

医院名のマ・メールは、フランス語で「私のお母さん」と、いう意味だそうで

す。なんだか、ホッこりしますね。

無いものを悔やんでも仕方ない。あるものに感謝して…

最後に先生が、私達に向けて語られた言葉です。

本当に、貴重なお話を有難うございました。最後まで胸にジーンとくるお話でした。

語り部報告

前月号でもお話ししました、骨髄バンクの普及啓発の一つ。伝えの場所…

駄目もとで北九州市役所地域医療課に、学校での語り部開催の企画書を提出していたのですが先日、九州リハビリ大学で授業の1コマを使ってやりませんか?と、お話を頂きました。少しずつ、話を煮詰めている段階ですが今後も随時、進捗状況をお伝えしていきたいと思います。

産業医科大学 医生祭 が開催されます。

来る11月2日3日に産業医科大学 学園祭が開催されます。

2日 13時より 第1部 震災企画

         現地派遣医師及び看護師による講演

   18時15分第2部 骨髄バンク企画

         産業医科大学病院 化学療法センター部長

           塚田 順一先生による講演

         ドナー体験者講演

         瀬尾 久仁&加藤 真一郎ピアノデュオコンサート

3日 骨髄バンク登録会

場所 2日 産業医科大学ラマツィニーホール

   3日 産業医科大学グランド

お近くにお越しの祭は是非、お寄り下さい。

                         

  

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2011年10月 7日 (金)

2011/8/26 NPO活動発表会、

北九州がんを語る会 世話人田中七四郎

 ☆発表内容☆

20年間のあゆみ~がんやホスピスについての知識の交流~」あなたをひとりぼっちにしない!」が会の精神です。この会は、平成2年に故浜口至牧師が中心になり、「行橋がんを語る会」としてスタートしました。その2年後、事務局を北九州市に移したのを機に、現在の名称に変え、曹洞宗の住職ら6人の世話人全員で運営をしています。今年で21年目になりますが、現在の会員数は行橋、北九州近郊を中心に約80名です。

主な活動は、毎月発行の会報「希望(のぞみ)」を通じて、がんについての新聞情報やがん専門誌などの記事を紹介したり、2~3ヶ月に1回、専門家を招いた例会や、がん患者や家族の交流会、病院や施設の見学会などを開き、がんに関する情報共有や相互理解の場を設けています。

平成5年には故浜口代表が北九州市議会議長宛に「緩和ケア病棟設置に関する請願書」を提出し、それがきっかけとなって北九州市立医療センターの緩和ケア病棟が実現した経緯がありました。今年3月には、会設立20周年記念フォーラムも開催し、多くの方が参加して下さいました。

私自身も18年前に胃がんになり、胃の8割を切除しました。生かされている身として、自らの経験を活かし、患者さんたちの不安感を少しでも取り除きたいと思いながら活動を続けています。

今後は、在宅ホスピスの環境整備・充実化などの提言をしていくと共に、参加者同士が普段着でがんを語り合い、同病相励ましあう場を続けていきたいと思っています。

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あとがき(2011/8/15)

        事 務 報 告

723日(土)事務局・西安寺にて世話人会開催。会報「希望」第253号製本発送。

あなたらしく生きる

  あ と が き  

朝から曇っています。小雨まじりにもかかわらずクマゼミが盛んに鳴いています。ときおりツクツクボウシの鳴き声がまじっているような気もしますが、定かではありません。お盆も過ぎて猛暑、溽暑(日本独特の蒸し暑さ)の日々もようやく終わりに近く、残暑あるいは餞暑の時節に移ってきたようです。「餞暑」(せんしょ)とは、去りゆく夏が別れの餞(はなむけ)の意味を込めて残していった暑さのこと。そして23日には二十四節気の「処暑」(しょしょ)を迎えます。処暑は暑さが休まるという意味で、新涼(秋涼)が間近いことを告げてくれるということ。

 日本の暦は、明治6年(1873年)の太陽暦(新暦)の採用によって西欧列強の仲間入りを果たしました。グローバリズムを推し進めるという観点からはプラス面も多かった半面、日本人の生活に根付いた年中行事を空洞化させてしまったというマイナス面もあると思われます。長谷川 櫂という俳人の「日本人の暦」(筑摩選書0009 2010年12月15日)をこのごろ愛読していますが、いろいろと教えられることが多いようです。『日本人は三つの時間構造を生きている。明治六年に採用された「太陽暦」、それまで日本文化の土台となっていた「太陰太陽暦」(旧暦)、そして太古の「太陰暦」(太古暦)。』

 そこで「二十四節気」の見直し。このごろ某テレビ局の気象予報士が節目、節目に二十四節気のことを交えて解説しています。生活に密着した番組としてとても好感が持てます。旧暦は基本的に月の満ち欠けを基準にしていたけれども、太陽の運行をもとにした二十四節気を入れることで一年を二十四等分にしていたのです。地球上の四季は太陽の運行をもとにしたものであることは周知の通りですが、推古天皇の時代に中国から移入された旧暦は太陰暦だけでは季節感がずれてしまう事を知っていました。(月が12回満ち欠けする旧暦の一年は地球が太陽のまわりを一周する太陽暦の一年より10日ほど短いから五年に二度の割合で閏月を入れざるを得なかった。)もとをただせば中国渡来のものとはいえ、二十四節気の導入は季節の変化に敏感な日本人の生活習慣に深く浸透したものだったのです。自然への畏敬の念も長い時間をかけて育まれたのだと思います。

 明治6年の太陽暦導入後、欧化主義を急ぐあまり二十四節気の存在を軽視したことが自然への畏敬の念をも喪失したとしたら残念でなりません。山口県の上関(かみのせき)で進められている原発設置をめぐって、地主の一人である神社の神主さんが最後まで反対したのは、今回の福島原発事故を持ち出すまでもなく自然への畏敬の念を忘れないようにという思いが強かったのかもしれません。地域経済活性化の名のもとに神社の森を壊すのは忍びなかったのでしょう。 8月18日 (T

北九州がんを語る会

事務局 〒803-0851 北九州市小倉北区木町2-12-34

西安寺 玉水秀孝()TEL093561-5320

HPアドレス

http://ctnk7460.cocolog-nifty.com/nozomi/

(会費振込先)口座番号01760-1-83497

加入者名 北九州がんを語る会

郵送の場合は、玉水へ

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駆けっ句365日生き急ぎ(葉月の巻)

「駆けっ句365日生き急ぎ」

烏有

烏有(ウユウ)

本名:田中七四郎(タナカシチシロウ)

1943年(昭和18年):10月、

東京都渋谷区

1968年(昭和43年): 4月、 富士通株式会社入社、システムエンジニア職従事

1993年(平成 5年): 1月、 駆けっ句スタート   8月、 胃がん手術

2000年(平成12年):12月、 富士通株式会社役職離任により退社

コーポレイトソフトウェア株式会社入社

2002年(平成14年): 7月、コーポレイトソフトウェア株式会社退社

葉月ノ巻

葉月某日・バーチャルに動く書斎と涼むかな

葉月某日・山ミミズたちまち干上がりし猛暑

葉月某日・ウルムチやムスリム数奇な熱波寄す

葉月某日・月下美人熱帯夜にほの妖し

葉月某日・短夜おき浅漬けのメールを料理す

葉月某日・ゆくるりと吾レは岩場の清水を汲む

葉月某日・死ぬほどのこともなし暑さかな

葉月某日・浴びて出る一番森の至福かな

葉月某日・原爆忌isはあってもifはなし

葉月某日・水浴びる児らとからすの暑さかな

葉月某日・シェスタするよしずの陰より夏の雲

葉月某日・颱風の雨にめげずせみしぐれ

葉月某日・彼岸への道を一献携へて

葉月某日・行間を読み損なひし夏の雲

葉月某日・秩序ある混沌に目鼻付け夏果てる

葉月某日・節目の記念日戦争責任を繙く

葉月某日・終戦の日露天より見へし壺中かな

葉月某日・公平な不自由ほどの残暑かな

葉月某日・軍隊からの安全を誓ふきのこ雲

葉月某日・軍隊による安全ほどの危険はなし

葉月某日・夏往くや3000発の火の柱

葉月某日・花火まで仕込みおさおさ満を持す

葉月某日・なひの前白なまず騒ぐ残暑かな

葉月某日・興南高の勝を見届け早慶戦

葉月某日・スタンドの都の西北熱帯夜

葉月某日・若き血や大差許して夜半の月

葉月某日・熱き夜勝負は二の次にはかOB

葉月某日・熱中症の訃報届くや法師ぜみ

葉月某日・秋てふの群れにまとはれ道急ぐ

葉月某日・灼くる野原彩るかんぞう丈低し

葉月某日・ぽつぽつと萩しのび寄る峠かな(つづく)

http://homepage1.nifty.com/tanakas/uyuu.htm.

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