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2010年9月に作成された記事

2010年9月 2日 (木)

あとがき(2010/4,5,6,7,8月号)

表記分は既に当ブログに掲載済みです。

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あとがき(2010/3月号)

✤✤ あ と が き ✤✤

10日は終日大荒れの天候でした。突風と共に雨まじりの雪、雪まじりの雨が激しく降り続きました。今年一番の積雪(春の雪)となりました。翌朝は一転して晴れの天気となり、屋根に積もった雪が音を立てて滑り落ち、軒の下にかたまりとなって積もっていました。夕方にはほぼ溶けてしまったようです。甘美でほろ苦いなごり雪とはなりませんでした。

先月「人はパンのみにて生きるにはあらず。神の言葉による」という聖書の言葉を大雑把に掲げてしまいました。私はクリスチャンではありませんので、護教家でもなく唯心論者でもありません。ましてその対極にある唯物論者でもありません。こういう発想にはいわゆる近現代のヒューマニスト、無神論者の影が漂っているのであまり使いたくありませんが、マタイ伝(四・1-14)からの引用としては雑でしたのであらためて書き継ぎます。

いちおう正確にはイエスが40日40夜、断食をし、その後空腹になられて、悪魔が―現代風にいえばヒューマニストでしょうかー神の子イエスを試すという状況設定になっています。悪魔いわく「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。これに対するイエスの答「『人はパンのみにて生きるにはあらず、神の口から出る一つ一つのことばにて生きるものなり』と書いてある」。という風になっていて、イエスの悪魔の問いに対する答としては間接的で、悪魔の期待するようなものではありません。「生きる」ということに対する悪魔の問いとイエスの答には、同じ世界に生きていながら「生きる」支えの次元をめぐって、まるで違うものがあるのです。言い換えれば、イエスは悪魔の誘惑に乗り悪魔と同じ立場から、悪魔の期待したような答をしていないのです。悪魔からみれば自分の切実な問いをはぐらかされたとしか思われないでしょう。イエスにとっては「神の口から出る一つ一つのことば」の一つで、必然的にパンは大事ではあるけれども、相対的な一つでしかない。それに対して悪魔にとっては生きてゆく上で唯一絶対の一つ(条件)だったわけです。神の存在を信じない悪魔は善魔でもあるわけですが、いわゆるヒューマニストの問いとしてはまっとうではあるけれども、一時的一面的でしかないということです。

私たちは「生きる」とか「生命の尊厳」というものを、なんの根拠もなく当然の権利として主張しがちですが、人間的(個人的・社会的)生死(しょうじ)の底なき根底にはそれを超え包む「いのち」があるということを往々にして見過ごしてしまいます。イエスの答には、そういう私たちの生き方をただす暖かくも厳しいニュアンスがこもっているように思われます。          3月12日 (T)

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あとがき(2010/2月号)

✤✤ あ と が き ✤✤

 今日は雨。昨日が春を思わせるような暖かさでしたから、まだ二月なのに春雨と錯覚しそうな模様です。庭の紅梅、白梅はいま満開です。しだれ梅は昨日の暖かさに誘われてちらほら咲き出しました。満開となるのは一週間先のことでしょうか。

 何ということもなくテレビを見ていたら、ハリウッドの有名な男優と女優が離婚の危機に陥っているという芸能レポーターの報告がありました。男優は私も映画で知っている人でしたが、女優は知らない人でした。その私の知らない女優さんは仕事で稼いだ大金の一部を、世界(アフリカ?)の飢餓に苦しんでいる子供たちを救うために寄付している人らしい。そういう慈善事業に大金をつぎ込むことを惜しまない人が、いちばん身近な生活のパートナーとは不和であり危機的状況にあると野次馬的な皮肉をこめてレポートしていました。

 持たない傍観者から見るとなんとも羨ましいという感情とともに、その人の救いはどこにあるのかしらと思ってしまうのが一般的な人の抱く感情かもしれません。結局、救いとは何かということに収斂されるかもしれません。精神的にも物質的にも安心を得るということでしょうか。言い換えると、生きる(死ぬ)とはどういうことかという問題になるように思われます。明日死ぬかもしれないという飢餓状態の人々に物質的に援助するということは、その行為は一面立派な行為でしょうが本当の救いとはいえないでしょう。悪くすると当人の意に反して金持ちの道楽行為(偽善的)でしかないというそしりを受けるかもしれません。一種の一時的な保身行為。

 こういう問題に直面した時いつも思い浮かぶのが「人はパンのみにて生きるにはあらず。神の言葉による」ということばです。パンは人が生きていくのに欠かせないものであるにもかかわらず、それを容認しつつもっと大事なものが欠かせないと言われているのです。神といい、神の言葉といい私たちにとっては目にも見えず耳にも聞こえないものです。近現代のヒューマニストにとっては認めがたいことばです。神の存在を信じる者にしかできないと反論されるのがオチでしょう。しかし「人間とは何か」「生きるとは何か」ということを突き詰めて考えた時、おろそかに聞き過ごすことばではないように思われます。

2月10日 (T)

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あとがき(2010/1月号)

✤✤ あ と が き 

寒中お見舞い申し上げます。

今日は大寒。暮れから正月にかけて寒波襲来で今年はどうなることかと思いましたが、4,5日間の周期で暖かい日と寒い日が交互にやってきて今日はたまたま暖かい日でした。こうなると体調管理がたいへんです。どうかお気を付け下さい。

庭の紅梅白梅の蕾はまだかたいのですが、今年はすこぶる出来がいいようです。これからが楽しみです。それにひきかえ、椿の花は例年より早く咲きだしましたがいきおいが足りません。去年かなり刈り込んだせいでしょう。来年はまたいきおいを盛り返して目を楽しませてくれることでしょう。

政権交代してはや4ヶ月が過ぎましたが、総選挙の時のマニフェスト通りにことは運んでいません。一部の指導者の不始末も影響しているようですが、社会的弱者やいわゆる庶民に対して媚びたマニフェストだったことが一面あやふやなことになったのかもしれません。一握りの政治的・社会的権力者に対する多数の弱者・庶民の為のマニフェストだとしたらやはりいびつなものにならざるを得ないでしょう。かりに一般大衆が権力を自分の手に握ったらいつでも強者になり得るし、これまでの強者は弱者になってしまいます。権力者はともかく一般大衆・庶民とは何者かという問いもやはりきちんとしておかなければならないでしょう。いくら民主主義とか主権在民とかいっても漠然とした庶民では困るわけです。万が一取り返しのつかない失敗をした時の責任は誰が取るのか、一般民衆・庶民の間にも中心と周辺という関係は残念ながら厳然とあります。烏合の衆による集団無責任体制は封建社会の専制政治にひけを取らないものとなるでしょう。

結局、強者も弱者もふくめて、他律主義ならぬ自律主義を標榜する近現代のヒューマニズムの弱点は「人間とは何か」「私とは何か」という問いを性急に不問に付して、あらためて問う必要のないものとしたところにあると思われます。強者ならぬ強者、弱者ならぬ弱者、悪人ならぬ悪人、善人ならぬ善人としてそれぞれに同一の底辺におかれてあるという認識を曇らせているように思われます。この会報の表紙には「あなたをひとりぼっちにはしない!」と毎号あきもせず掲げてあります。私はどこまでも私であり、あなたはどこまでもあなたでありつつ、同じ存在の低みにおいてつながっているという思いを表明しているのです。

今年もまた「待ちつつ急ぎつつ」困難な課題に向かって生きて行きたいですね。

2010年1月20日(T)

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