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2009年9月26日 (土)

「赤毛のアン」の原点にある人恋しさについて あらきまりこ

    「赤毛のアン」の原点にある人恋しさについて

                     あらき まりこ

昨年、本屋さんで「赤毛のアン」が出版されて100年になるというのと感想文を応募しているというチラシを見て、久しぶりにドキッとして心が高鳴りました。アンは私の思春期時代から40数年を経た現在に至るまで、私に多大な影響を与え続けています。内気だった当時の中学生の私は、悲しいにつけ嬉しいにつけ、内面でアンを感じながら成長してきたように思います。応募があった時期は仕事がとても忙しかったのですが、感想文を応募しなければ気がすまないというか、アンにお世話になった自分の義務のような気がしました。また最優秀になると舞台となったプリンスエドワード島にただで行ける、というのにもとりつかれました。結果はみごとに落選でした!でも、50代の今、これを丹念に読み返して、人になんとか伝えたいと文章を練って投稿したことは、私には気持ちのよい体験となりました。以下がその感想文です。ぜひ読んでいただいて、思いを共有していただけるところがあればなあ、と考えたりします。

「赤毛のアン」の魅力は、この物語が、人間の本質に備わる人恋しさと生の歓びをシンプルに唱っているところにあると私は思う。生の歓びは、アンが恋しく感じられる人々と分かち合うことによって倍増され確かなものとなっているから、この物語は「人恋しさが全章を貫く物語」とまとめて言ってもよいかもしれない。人恋しさは、登場人物のアン、マシュウ、マリラそれぞれの心に核として潜む。この3人の人恋しさは、3人3様のあり方で存在し、その求め合う心の、機が熟した時に3人は出会うことになる。アンの人恋しさは、その境遇の記述から伝わる。生後3か月で両親に死別し、生活の場を転々とするなかで、11歳の少女アンは、帰るべき「ほんとう」の家と、自分をほしがってくれる人の存在を渇望していた。一方、マシュウとマリラの人恋しさに関して明らかな記述はない。それは、主にアンに出会った後の2人の反応から汲みとることができる。この物語は、60歳になったマシュウが、マリラに突如、孤児院から男の子をもらいたいと打ち明けたことから始まる。彼のように内気で無口な人は、人になじむのに時間がかかる。60年を経てようやく、自分の殻から少しだけ首を出してみてもいいかなあという淡い思いが作用して、雇い人ではなく、子どもとして面倒をみる対象を求めたのではないだろうか。それはアンと出会った後の彼の変化をみても、よくわかる。女の子の苦手な彼がアンに出会ったその日に「この子のおしゃべりは気に入ったわい。」と思い、まちがって女の子が来たのに、「わしらのほうであの子になにか役にたつかもしれんよ」とマリラをさりげなく説得にかかる。アンが罰として2階の部屋に閉じ込められると、意を決して、4年も上がったことのなかった2階にも上がる。はにかみながらも、アンとその仲間をじっと見守って、アンの服だけが流行の膨らんだ袖ではないと気づき、洋服屋にも出かけていく。それはリンド婦人を、「まあ!あの男も60年以上も眠ってたのが、やっと目がさめたってものさ」と驚嘆させてしまう。これらの変化には、アンの魅力が大きく関与してはいるものの、はにかみ屋のマシュウがアンの素敵な想像力の受け皿になり変化したのは、この年代に至った彼だったからこそできたのだと私は思う。マシュウは、いつも見慣れた「並木道」や「バーリーの池」が、アンの手にかかって「歓喜の白路」や「輝く湖水」に生まれ変わることなどを通して、改めてマシュウ自身の「生」を生き直し始めたのではないだろうか。やっと話を心ゆくまで聞いてくれる相手を得たアンの語りと、その話に聞きほれながら人生を味わい直すマシュウのあいづちは、波長をぴったり合わせ、2人に至福の時を与えている。

マリラの人恋しさもこの物語の前面には出ていない。しかしマシュウが自分の殻から少し首を覗かせたのと同じように、「何につけてもきちんとしなければ気のすまない」彼女も、50代にして初めて、自分以外の対象に眼を向けるゆとりがもてたのではないだろうか。律儀で清潔好きで社会的規範に最大の価値を置くマリラの青春は、自分自身がきちんと生きることでせいいっぱいだったような気がする。その彼女が、この物語では徐々にアンを育てようという気持ちに傾き始める。「わたしにも魔法をかけるつもりだろうよ」と警戒しつつ、「いつのまにかひきとることがあたりまえのような気がしてきた」とマシュウに語るようになる。そしてアンを厳しく注意しつつ、根っこのところではアンに味方するという、意外な自分の姿にとまどったりする。またアンの方から身体をすり寄せてきたり、頬を寄せられたりした瞬間に、「何か、身内のあたたまるようなこころよいもの」を感じて胸をあつくする。そしてふと気がつくと、アンが居なかった頃のことが考えられないくらい、マリラにとってアンの存在はかけがえのないものとなり、アンが居ないと「さびしい」と口に出すほどに、自分の感情を率直に表出できるマリラがそこに居始める。

アン、マシュウ、マリラの原点にある人恋しさは、人間にとって普遍的なものである。この3人の人恋しさがみごとに一つに結晶したのは、アンの限りない生への肯定とその惜しみない表出力にあると思う。アンの孤独は、自分が生まれた時「お母さんはあたしをまったく美しいと思ったんですって。」という人伝えのことばに絶対的に支えられ、「楽しもうとかたく決心さえすればたいていいつでも楽しくできるのが、あたしのたちなんです。」という、とことん生を肯定し、人とそれをとり巻く世界の美しさや歓びを享受する想像力の豊かさに救われている。しかしアンの孤独が現実的にほんとうに救われるのは、マシュウ、マリラの潜在的にもっていた人恋しさと引き合ってこそ可能となったものである。物語の冒頭でマシュウ、マリラがアンを選び、物語の結末の「道の曲がり角」の章で、今度はアンの方がマリラとグリン・ゲイブルスを選んだことは、私には必然的なことのように思われる。アンの持つ、日常のひとつひとつに生の歓びを見い出し、人恋しさを素直に表出する力というのは、10代のかつての私と50代の今の私の両方の心をも豊かに潤し、絶えることなく美しい魅力を放ち続けている。

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