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2009年3月18日 (水)

あとがき(2009/3/15)

    事 務 報 告

        2月14日(土)事務局・西安寺にて世話人会開催。会報「希望」第224号製本発送。、

        会報の製本等、お手伝いしてくださる方、事務局までご連絡下さい。

あなたらしく生きる

  あとがき  

早速、先月の続きに入ります。この二ヶ月「無情説法」のことばかり考えてきました。なぜ一日一日が大事なのか。悔いを残さず死ぬためには、一日を十分に生き切ればそれでいいのだと得心する確かな根拠を自分自身のこととして、それは同時に皆さんとも関係していることだから、皆さんと共に考えてみたかったのです。

先月、結論だけ先取りして書きましたが、あらためて「無情説法不思議/若将耳聴終難会/眼処聞時方得知」という言葉に迫りたいと思います。

そもそも「無情」とは「不思議」(思議すること難し、人間の思慮分別を超えている)という言葉に対応するように、有情に相対する無情ではなくて、有情無情を超え包み、一切の思慮分別の止んだ(身心脱落した)、今ここ、その時その場で、声なき声、姿なき姿としてある私ならぬ私自身の存在のことでした。その身心脱落した私(無情)が間髪をいれず、何ものも介入することなく脱落した身心として、口でしゃべるだけでなく、からだ全体でしゃべり抜くことを説法といい、無情と説法はひとつであり、一息に無情説法、説法無情と言いうるものでした。したがって、説法を聞く(聞法)ということも同時に成り立っていて、説法するものと聞法するものが別々にいるのではなかったのです。それもこれも身心脱落・脱落身心(不思議)の場におかれていればこそそういうことが言えるのです。難しい概念を使いますと「空の場」です。しかもこの原事実・現事実の場には、私だけいると同時に、それぞれに、すべての人(死者も生者もひっくるめて聖人も凡人も)、非人情の山川草木石、日月星辰、世界(宇宙)全体が集められていたのでした。いきなりこんなことを言われても認め難く信じ難いかもしれませんが、各自の生きる意味(死ぬ意味)を考える際のヒントになればと思います。「不思議」という言葉にはそれだけの深い意味と重みがあるのです。このことに得心がいくと「若将耳聴終難会/眼処聞時方得知」という言葉の意味もわかるでしょう。

まず「若将耳聴終難会」。これを読み下し文にすると思慮分別を先立てる従来の考えに戻りますから「にゃくしょうにちょうしゅうなんえ」と棒読みにしたほうが事柄の真実に近づけると思います。「若」は前の「不思議」を直接に受けて「しかるに」と取り、「今まさに耳で聴こうとすると」(将耳聴)、無情である私と耳で聴く説法とは一体であるから、初めから「終わりまで会うも会わないもない、すでに出会ってしまっている」(終難会)。「難」を使ったのは平仄の関係はともかく(不会)、説法するものと聞法するものが二元的に並び立つ、「不思議」を無視した従来の思慮分別の立場に戻ることを忌避したかったのでしょう。けっして耳で聴き、耳で知ることを否定しているのではない。

つぎに「眼処聞時方得知」。これも「げんしょもんじほうとくち」と棒読みがいいでしょう。「眼処聞時」は「眼処聞声」としているのもありますが、前の句に「将」とか「終」という「時」に関係する言葉がありますので「眼処聞時」を採用しておきます。本来は「耳処聞時」なのでしょうが耳で知るとなると、これまた従来の二見分別の立場に逆戻りする恐れがある(心の耳で聞くというような)とともに、説法は口でしゃべるだけでなく、自己の身体全体を挙げてしゃべることでもありますから、いわゆる六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)の一つを代表させて言われたものと思われます。「耳で見る」ということも同じです。ですから「眼処聞時方得知」の趣意は、「今ここで、説法と一つになった眼で聞くまさにその時(瞬間、瞬間)、知らずして知る」ということになると思われます。無情説法は不変不動の静止的固定的なものではなく、時々刻々と移りゆく変幻自在、創造的なものだからです。この句でも、「不思議」(すばらしい)という言葉が生きています。

ところで、この公案を修行者の悟り体験(見性体験)と結び付けて、「無情説法を本当に聞きうるならば、法性を通じて仏性を悟り、見性がいけ、自己即仏であることに気づく筈」といったふうに解釈しているものがあり、一見分かりやすくみえます。しかしこれは従来の通俗的な解釈を一歩も出ませんし、日々悩み苦しみながら生きる私や私たちにとって、生きた言葉には全くなりません。この人はいちおう得道の(悟った)人と自認し、その真実の自己(仏)の立場から、有情(自己)に相対するものを無情(山川草木石)として対象的に見て、その無情なるものが「皆、宇宙の真理・大法を常に止むことなく説いている」のだと「心の耳で聞いて」悟り、その悟った自分の心が真実の自己すなわち仏であるというのです。この人にとって無情説法は有情の自己の悟り体験の契機、道具にすぎないわけで、無情説法を固定的傍観的に聞いて自己満足に浸り、いたずらに悟りを強要しているだけなのです。じつは非人情なる「山川草木石」も、私を含めて世界(宇宙)全体が集められた身心脱落の場所(空の場所、絶対無の場所、平常底)でそれぞれに無情説法し、同時に私もそれらのもとで聞き抜いているのです。この人のもとにも届いているはずですが、仏性を自らの悟り体験の内に取り込んでいるので全く聞いていない。無情説法を対象的に見てすでに聞いたと思い込んでいるにすぎません。また、この人のように有情の人が無情説法をし、聞法する私がいる時どうなるかという疑問が起こりますが、その時は私も無情となって無情説法を聞いているわけで、その説法を分かるかどうかは関係ありません。

はからずも長引いた「無情説法」談義でしたが、ひとまず筆をおきます。難しい物言いとおしゃべりに終始したことをお許し下さい。とにかく「無情説法」は無情として六根全体を使い抜いて今ここを生きること、それで十分なのです。「一日の苦労はその日一日だけで十分である」(マタイ・六・三四)という聖句に通底するように思われます。                       39日 (T

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