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2009年1月17日 (土)

あとがき(2009/1/15)

☆事 務 報 告

                                             1220日(土)事務局・西安寺にて世話人会開催。会報「希望」第222号製本発送。、

                                             会報の製本等、お手伝いしてくださる方、事務局までご連絡下さい。

あなたらしく生きる

  あとがき  

寒中お見舞い申し上げます

新しい年を迎えてはや月半ば。ここ数日は寒い日が続いています。昨日は移り変わりの激しい天候の一日でした。昨年の目まぐるしい世相を象徴するような荒れようでした。皆様はどのような気持ちで正月を迎えられましたか?

梅の花はまだ蕾ですが、椿の花が咲き出しました。晴天の穏やかな日にも、昨日のような荒れた日にも凛として咲き、時期が来れば潔くぽとりとおちて自らの役目を終えていく光景に心動かされます。

禅のことば(公案)に「無情説法」というのがあります。「無情説法不思議/若将耳聴終難会/眼処聞時方得知」(むじょう説法不思議/もし耳をもって聴かばついに会し難し/げんしょに聞く時まさに知るを得ん)─無情説法とは不思議なものだなあ、草木や石ころなど、人間的な情の無い物の無言の説法を聞いてこい。それは耳で聴き、眼で見ようとしても判るものではない。眼で聞き、耳で見る時、はじめて知るであろう─と、一応こういうことなのですが、普通の常識からしたらつじつまがあいません。非常識(非情識)というほかありません。とにかく、私の全感覚を研ぎ澄ますことで眼と耳が一体となり、私の眼前に咲いている椿の花のありようを対象的に見て、椿の花の無言の説法を聞けと言っているのだと解せないこともない。しかしそれでは「眼で聞く(耳で見る)」と強調されていることのねらいがわからない。本当に聞く(見る)とはどういうことか。

すなわち、聞かずして聞き、見ずして見るまさにその時、その処で直接に知らずして知る─それが無情説法である。椿の花と私がぴたりと一つになった「今、ここ」が無情説法(若将耳聴終難会・眼処聞時方得知)であるということ。言い換えるなら、私が椿の花を傍観的に眺めている限りでは無情説法を「見・聞・覚・知」したことにはならないということ。孤立的に私を先立てて思慮分別している限りでは何ものにも出会うことはできないし、迷妄の生を送るのみ。私の思慮分別を先立てることを断ち切って、「今ここ」を無心に生き切ること、それが無情説法に出会うことであり、その生き方そのものが無情説法であるということ。

難しいもの言いになりました。大事なことなので来月また。

2009115日 (T

北九州がんを語る会

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加入者名 北九州がんを語る会

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