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2007年1月20日 (土)

特集記事

【思い出の部屋の中から:心に残る患者様とのふれあい体験】

                      大山 恵子

 私は、ナイチンゲールの伝記の中でクリミア戦争の時に、夜毎の見回りの時に彼女がカンテラを持って、傷ついた兵士の寝顔をひとりひとり見つめ祈りながら廻ったという件が大好きでした。

看護師となり懐中電灯を持って患者様のベッドサイドを巡視するときは、いつもそのことを思い出していました。夜勤の時は、たった二~三名の看護師で数十名の患者様を守るのだと感動し、状態の悪い方の部屋に入る前は、祈りをささげて入っていました。相手の神様はすべての宗教の神様でした。だって、その方がどの神様を信じていらっしゃるのかわからなかったからです。

 漠然と自分の顔が、できることならば患者様の寝顔をみて安らかにと祈るナイチンゲールのような聖母マリアのような微笑をたたえていることができるならば良いのになぁと考えていました。

 しかし、現実の夜勤は多忙なことが多く微笑みどころか、バタバタと足音荒く走り回っていたことが多かったようにも思います。そんなわけで私はカンテラを持って廻る看護師にあこがれていたわけです。少女趣味と笑われそうですが、そうなのです。

私の思い出話をさせてください。「希望」の趣旨に沿う話かどうかは自信がありませんが、看護師生活も20年くらいになってしまいましたから、自分の心の整理と充分なふれあいのできなかった患者様へのお詫びもかねて、私の心に残った患者様のことを聞いていただきたいのです。患者様から教えていただいたことはたくさんあります。思い出の中の方々は皆漠然としていますが、その言葉や出来事のお話をさせてください。

 前置きがながくなりました。それでは、私がまだ新米の看護師だったころのお話からはじめましょう。

 私は看護専門学校を卒業して整形外科の病棟に配属になりました。その方はAさんと言って27歳くらいの女性の患者様でした。病名は肩関節の骨肉腫でした。骨にできる腫瘍で命の危険がありました。明るい性格の方で、オートバイの事故で昨年ご主人を亡くされていました。新米の私にとっては年上の患者さまでしたから、患者というよりも姉のように私をかわいがってくれました。ある日、彼女につらい選択が迫られました。癌に侵された手を肩から切断しなくてはならなくなったのです。明日、手を切断するという夜に私はずっとその方の切断されてしまう手を握りしめていました。「ずっと握手していて、覚えていてね」と彼女は言いました。私は「はい」とうつむいて手を握り続けました。看護師が泣くなんて当時は許されてなかったんです。でも、彼女の手に私の水滴は落ちていきました。翌日片腕になった彼女は、軽くなったよって笑ってみせてくれました。でも、すべては遅かったのです。彼女の病状は悪化し、人工呼吸器をつけるかどうかというところまでになりました。「これをつけたら生きれるんだね」と聞く彼女に私はうなずきました。彼女は生きることに執着していました。それは、バイクの事故で亡くなった旦那様の分も自分が生きるんだときめていたからなんです。前にそんな話を彼女から聞いていた私は、断固として生きれると信じてうなづきました。目と目があいました。私は信じていたから強くうなづきました。でも、間に合いませんでした。命のともし火が消えそうになる前に意識のあるうちに彼女は口から管をはずして欲しいと母親に訴え管ははずされました。

 私は、どうしたらよいのか、何を言ったらよいのかわかりませんが、離れられずそこにいました。ただ、立っていたのです。癌の患者様の側にいることが看護だなんていう感情はありませんでした。どうしようもできなくて立っていただけでした。

 彼女は私を手招きして「昨日、あの人が(旦那さん)が夢にでてきたのよ。私を迎えに来てくれるのよ。ひとりじゃないんだよ」って、そして、手を切断する「あの日、私の手を握ってくれてありがとう。泣いてくれてありがとう」って言ってくれました。私は、また、涙をながしながら残ったほうの手を握りました。

「旦那さんが来てくれるの?そうなの。ひとりじゃないのね。

旦那さんがきてくれるんだね」って何度もうなずきながら二人で手を握り合いました。かすれた小さなやっと聞き取れるくらいの声でしたが、彼女は確かにそう言ってくれて微笑んでくれました。

翌日、彼女は静かに天国に召されていきました。

 私は、何もできませんでした。ほんとに彼女と旦那さまの幸せをいのることくらいしかできませんでした。

「側にいること」とは、なんなのでしょう。ただ、居場所がなくてオロオロして、離れられなくていただけの新米看護師でした。

でも、「側にいること」は、側にいるだけでよいのだって、何も看護の技術とかコミュニケーションの技術とかそんなものはいらないのだってことを、彼女が私に教えてくれました。

私は彼女のお母さんを抱きしめました。彼女の言葉を伝えました。彼女は私の人生においての先輩であり先生でした。

【側にいること】は、そのままの意味なんだと思いました。

看護師だって泣いたっていいじゃないって思いました。泣き虫の弱虫の看護師の誕生でした。なにしろ、とにかく【側にいよう】本人と家族のそばにいようと思ったのは、この彼女との出会いからだったと思います。

これからも、思い出の扉をひらいて、ときどきお話をさせていただきたいと思います。なんて看護師だっておもわれるかも知れませんが、話す機会を「希望」に見出したようにおもうのです。

浜口代表のしのぶ会で心から思いました。私にできることから

はじめようって思いました。よろしくお願いします。

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