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2005年12月20日 (火)

「モモ」の聴く力に見習うこと

   「モモ」の聴く力に見習うこと

                                           新木 真理子

 ミヒャエル・エンデ作の「モモ」のなかに、小さな女の子のモモが、いかに聴き上手な子供であったのかということが素敵な表現で出てきます。私は、1年のうち5か月くらいは、看護を学ぶ学生と一緒に病院実習に出かけるのですが、実習に出る前の学内の演習の時に、この「モモ」の一節を読んで、学生に語りかけたことがあります。

 あふれそうなほどの病気の知識を頭に詰め込んだ学生がそのまま実習に出てしまうと、目の前に患者様がいらっしゃるにもかかわらず、また看護は病気に向けてアプローチするのではなく、病気を抱えたひとりの人間への援助を考えていくと講義で習ったにもかかわらず、ともすれば、そういう意味においての人間としての患者様がみえなくなってしまうことがよくあります。初学者であればあるほど、また目の前の患者様が辛そうにしていらっしゃればいらっしゃるほど、真っ先に「なんとか手助けしなければ」とあせる気持ちばかりが高まります。でも、その気持ちとは裏腹に、確かに一旦頭に入れたはずの病気や治療に関する知識が、自分のなかにちっとも定着できていないことに気づいたりして、ますます自分の無力さを感じてきます。そうなると、実習が開始された当初から、患者様が抱えている病気や治療の意味を理解することにせいいっぱいになって、目の前の患者様とさしあたりの会話はしていても、真のメッセージを聴き取ろうとする姿勢がみごとに失われてしまいます。そこで私は、学生が実習に出る前に、小さな何の力も持たないような女の子のモモが、相手に向かう時の態度について伝えて、それをきっかけに学生の肩の力がふっと抜けてくれるといいな、自分の知識の未熟さも認めた上で、今の自分らしさを大事にして自然に患者様とかかわってくれるといいな、などと願ったりします。その「モモ」の箇所を引用してみます。

(ミヒャエル・エンデ著 大島かおり訳 岩波少年文庫 p.21~p.24

 …。けれど近所の人たちにとっても、この子がきたことが大変幸運だったことがだんだんわかってきました。モモがとても役にたったのです。モモなしでどうしてこれまでやってこられたのか、ふしぎなくらいでした。時がたてばたつほど、この小さな女の子はみんなにとって、なくてはならない存在になり、この子がいつかまたどこかに行ってしまいはしないかと心配したほどです。

 モモのところには、入れかわりたちかわり、みんながたずねてきました。

いつでもだれかがモモのそばにすわって、なにかいっしょうけんめいに話しこんでいます。会いたいけれどたずねてこられないという人は、じぶんの家にきてほしいと迎えを出しました。そしてモモが役にたつことをまだ知らない人がいると、みんなはこう言ってあげたものです。「モモのところに行ってごらん!」

 このことばは、だんだん近所の人たちのきまり文句にまでなりました。「ごきげんよう!」とか「いただきます!」とか、「神のみぞ知る!」とかそれぞれきまったときにかならず言うように、みんなはなにかことがあると、「モモのところに行ってごらん!」と言うのです。

 でもどうしてでしょう?モモがものすごく頭がよくて、何を相談されても、いい考えをおしえてあげられたからでしょうか?なぐさめてほしい人に、心にしみることばを言ってあげられたからでしょうか?なにについても、賢明でただしい判断をくだせたからでしょうか?…。

…。(省略)小さなモモにできたこと、それはほかでもありません、あいての話を聞くことでした。なあんだ、そんなこと、とみなさんは言うでしょうね。話を聞くなんて、だれにだってできるじゃないかって。

 でもそれはまちがいです。ほんとうに聞くことのできる人は、めったにいないものです。そしてこのてんでモモは、それこそれいのないすばらしい才能をもっていたのです。

 モモに話を聞いてもらっていると、ばかな人にもきゅうにまともな考えがうかんできます。モモがそういう考えをひきだすようなことを言ったり質問したりした、というわけではないのです。ただじっとすわって、注意ぶかく聞いているだけです。その大きな黒い目は、あいてをじっとみつめています。するとあいてには、じぶんのどこにそんなものがひそんでいたかとおどろくような考えが、すうっとうかびあがってくるのです。…。

(省略)おれの人生は失敗でなんの意味もない、おれはなん千万もの人間のなかのケチなひとりで、しんだところでこわれたつぼとおんなじだ、べつのつぼがすぐにおれの場所をふさぐだけさ、生きていようと死んでしまおうと、どうってちがいはありゃしない。この人がモモのところに出かけていって、その考えをうちあけたとします。するとしゃべっているうちに、ふしぎなことにじぶんがまちがっていたことがわかってくるのです。いやおれはおれなんだ、世界じゅうの人間のなかで、おれという人間は一人しかいない、だからおれはおれなりに、この世のなかでたいせつな者なんだ。

 こういうふうにモモは人の話が聞けたのです!

いかがですか?子安美知子さんがおっしゃっているのですが、わたしたちがモモに100%なるのは不可能ですが、自分の中にある可能性としてのモモを広げようとほんのちょっと意識するだけで、なんだか人間は素朴に素直に、人と向かい合える気がしてきて、なんだかほんわかしてきてしまいます。

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