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2005年8月28日 (日)

特集

   野の花診療所にて

                         新木安利

 2004年11月14日、『百姓は米をつくらず田をつくる』(前田俊彦著・新木編・海鳥社刊)が、思いがけず、第17回地方出版文化功労賞を受賞し(次席受賞は柴橋伴夫著『聖なるルネッサンス 安田侃』)、鳥取市で表彰式があって、前田賤さん(しず・俊彦さんの次女)と出かけて行った。

俊彦さんは、1909年生まれ。31年治安維持法違反により逮捕された。戦後49年から延永村村長を行橋市との合併まで二期勤め、62年から「瓢鰻亭通信」を発行、ベ平連運動や三里塚闘争に参加した。81年、ドブロク「三里塚誉」を造り、利き酒会に国税庁長官を招待し、84年、起訴されると、「起訴されてうれしい。酒税法は憲法違反だ」と言って最高裁まであらそった。87年、脳梗塞を発病、リハビリを続け、車椅子でピースボートにも乗ったが、93年4月、自宅の火災で亡くなった。

「彼は常に自由で独立した志を持ち、野太い肉声を感じさせる鄙のことばで、権力の原罪と、人間の魂と自然を収奪してゆく現代商品文明を批判し、心ある人の共感を集めた。この文明の対極にあるのは「百姓の田をつくる」営みであり、「農」の思想と文化である。・・・」と、受賞理由はのべている。

 会場は鳥取県立図書館で、すぐ隣が鳥取赤十字病院だった。ここに徳永さんはいたんだなあと思って見ていたが、表彰式が終り、主催者がどこか行きたい所はないかというので、僕は迷わず、野の花診療所に行きたいと答えた。賤さんも行橋の矢津内科の北部九州ホスピスケアの会の会員だから、行こう行こうということになった。

 松下竜一さんが伊藤ルイさん(大杉栄と伊藤野枝の四女)の半生を描いた『ルイズ 父に貰いし名は』で第4回講談社ノンフィクション賞を受賞した時(1982年)、同時受賞が徳永進さんの『死の中の笑み』だった。ルイさんは以前鶴見俊輔さんの文章を読んでいて、ハンセン病回復者のホーム作りをしている医学生に興味をもっていた。そして徳永さんの受賞作を読んで、「死ぬ時はこの先生ね」と言っていた。そのときはまだその徳永さんがあの医学生だとは気付いていない。そうだと分かったのはやはり鶴見さんの文章を読んでいたときだった。ルイさんは「想い続けていれば、時が満れば、やがては会える」(『必然の出会い』)と言っている。90年、ルイさんは徳永さんのこぶし館で話し、93年徳永さんもルイさんの9・16の会で話している。この時徳永さんは小学校の同級生だった渡辺ひろ子さん(毎月2日、築城基地の前に座り込んで反戦運動をしている)とも再会している。96年5月、ルイさんがガンで亡くなる前、電話でいろいろ話した末、自然死を望むルイさんの潔さに感服し、徳永さんは「それではどうぞご機嫌よくご昇天ください」と言って、笑って別れたそうである。97年、こぶし館で松下さんがルイさんのことを話した。

 徳永さんは2001年11月、二十三年間勤めた鳥取赤十字病院をやめ、12月から鳥取市行徳でホスピスケアのある19床の有床診療所野の花診療所を開いた。                           僕たちが見学に行った時、徳永さんは留守だった。6月17日に亡くなった松下さんの話など伝えたかったのだけれど。それはとても残念だったけれど、想い続けていれば、いつか会える日もあるだろう。実際賤さんはも一度矢津先生たちと来ようと言っている。婦長さんに来意を告げ、落書き用の壁に記念に名前を書いてきた。

 徳永さんの活動は多くの著書で知ることができる。ここでは診療所で買った『野の花診療所の一日』(共同通信社)と、もらったパンフレットから少し紹介したい。

 長年の徳永さんの経験が生かされているのだと思うけど、ここのエレベーターはベッドのまま屋上に出られる。屋上から花見や花火見物ができ、鳥取の町が見える。閉じこもりがちな患者さんにとって、大きな空や満月を見ることができるのは、一時の開放感を味わえる。一方、一人になって考えたい時もあるだろうから、一畳ほどの瞑想室もある。ラウンジがあって、ピアノやステレオが置かれている。隣の家の柿の木が借景となっている。ここでは結婚式も行われる!

 午前の回診中、緊迫した容態の矢野さんの二男と婚約者、その両親が結納で岐阜から来ている。式をいつにしようか、一月先ではどうでしょう、と相談を受けた徳永さんは、「いや、そんなにはもたない。二人の姿を今日、お父さんにしっかり見てもらっておかれる方がいい」と答えた。回診を続けてまたラウンジに来ると、矢野さんの奥さんが「結婚式、今日にしようかって、みんなで話し合ったんです」、と言うと、

「それがいい。どこで?」「ここ、駄目ですか」「いいですよ、それはいい」。

 今日が衣装合わせのはずだったが、そのまま本番で、ということになった。午後2時から、ここで、結婚式、ということになって、看護婦さんたちも、「先生、ほんとにっ!?」と喜びの声を上げた。ティッシュペーパーで花を作り、ろうそくやテーブルやウェディングケーキが用意され、バージンロードもシーツで作られた。徳永さんはいつもの花屋さんに花束を三つ作ってもらった。入院患者のお孫さんが結婚行進曲をピアノで演奏し、ボランティアの谷川さんは宮司さんで、祝詞を述べ、厨房にあった酒で三三九度をした。花嫁が矢野さんに黄色いバラの花束を渡した。最後に矢野さんが「ミナサン、アリガトウ。ミジュクナフタリヲヨロシク」と挨拶した。みんなの目に涙があふれた。

 読んでいて僕の目にも涙があふれた。この話の分かった素早い対応は、徳永さんの運動神経のよさだと思う。しかし赤十字病院ではきっと無理だろうなとも思う。

 徳永さんはパンフレットの中に、「死ぬのはつらいだろうなー。寂しいだろうなー。だったらその時、その横に立っていて、手を握ってあげる仕事をしよう、と思ったのが高校二年生の時でした。三十七年が経って、ようやくそういう場に辿り着こうとしています。・・・」と書いている。

 70年代、徳永さんは友人たちと鳥取の過疎の山村に、社会がかかえるさまざまな問題を超える村を自分たちの手で作ろうとして、私都(きさいち)村という共同体を試みたことがあった。それは言葉だけが先行し失敗したのだが、徳永さんの中で私都村の夢は生きていた。その村の医療を担えるような医者になること、そして現実の暮らしの中で人々の役に立っていく中でしか、私都村は作れないと思った、と徳永さんは書いている。(『死の中の笑み』p258) 想い続けていれば、時が満れば、必ず会える。野の花診療所は、徳永さんの「私都村」ということなのである。

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