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2005年5月 4日 (水)

春夏秋冬(がん患者と家族の声)

                                                          春  夏  秋  冬

がん患者と家族の声・・・自己紹介

 私は大正13年(1924)3月7日生まれですから81歳になります。今月から、このコーナーを借りて「がん患者と家族の声」というテーマで少しずつ私の経験を綴っていきたいと思いますが、学者ではありませんから、学者のような文章のスタイルで書きたいとは考えていませんし、また、医師の文章スタイルで書きたいとも考えていません。私が関わってきた実際のことを綴っていくことにしました。まず、私がなぜ「がん」の問題にかかわるようになったかを、自己紹介をかねて短くお話します。

 昭和31年、私は32歳でしたが前後の数年は生涯中もっとも貧しく苦しい期間でした。31年7月、4歳になったばかりの長男が急病で亡くなりました。幼稚園に行っていた長男がある日鼻血を出して帰ってきました。顔色が悪く熱もありましたので医師の診断を求めますと「急性肺炎で入院させても手遅れです」と答えました。数日後、腹膜炎を併発して、お腹が膨らんでいき、2週間苦しんでなくなりました。

 この子を火葬するとき煙突から昇っていく煙を見ながら、人間の命というのは、いったいなんだろうと自問し、骨を拾う指先が震えました。形ばかりの葬儀をすませると、数日間、小さな骨壷を抱いて寝ました。しばらくして、妻と2人で墓地へ行き、穴を掘って壺を埋め手造りの墓標を立てました。この後、私の不始末が原因で協議離婚となり、養子だった私は家を出て、中学1年生の長女と小学4年生の次女は妻の許に残りました。県外で自分1人の生活はできるようになりましたが、妻や子供たちに私がしてきたこと、言ってきたことなどが罪責感となってのしかかってきました。それに耐えられなくなり、自殺を決意して、山に登りましたが失敗しました。

 みなさんの中にも「愛する者との死別」というつらい体験をなさった方がおられると思いますが、私の場合子供との死別という体験から人間の命、また生き様や死に様ということを考え始めるようになったと思っています。私は戦争にいき広島で被爆を体験しています。死体もたくさん運び、私自身戦争から帰って原爆症で倒れ、死にかけました。そんな経験がありますが、やはり4歳の長男が苦しみ喘いで亡くなったということが、大きな問題として残りました。広島で受けた原爆の放射能が子供の体調に影響したのではないかと、ということと、苦しみながら私になにかを訴え求めているのに、答えてあげる言葉をなにひとつ持っていなかったことが、私の苦しみとなりました。そういうことから、ある人の紹介で嫌でたまらなかった教会にいくようになりましたが、15、6年後、協議離婚をしたかっての妻が自殺したことを伝え聞いて強いショックを受けました。

 私は教会活動の中で、がんの患者さんと出会ったのですが最初の患者さんと出会ったのは、昭和4年ころです。家族の依頼があって病院の個室を訪ねると、家族は個室の片隅でぐったりしておられました。そこに主治医と看護婦さんが入ってきましたが患者さんや家族に声をかけることもなく病室を出て行きました。これは、この病院だけのことではなく、治療不能とされた患者さんに対する通例であることを後日知った次第です。むしろ、入院経験のなかった私のほうが、医療現場の実情を知らなかったということです。それにしても、患者さんと家族に会釈をするていどのことは儀礼ではないでしょうか。

 2人目は高校2年生、17歳の男子学生です。彼は悪性の大腿骨々腫瘍でした。自分の左脚が痛んだことから、家庭の医学事典を調べて、だいたいのことは認知していました。その上で2ヶ所の病院で診断を依頼すると、大腿骨々腫瘍と告げられたようで、ある朝の登校前に詳しい内容の封書を私に渡しました。この手紙は現在も持っていますが、左脚の膝の上10センチあたりから切断されて少年は助かりました。彼と家族の要請で親族会議に招かれ、左脚を切断するか、しないかの          話し合いに参加し、病室に泊まりこんで術前、術後のケアにあたりました。少年はきわどいところで助かり、義足をつけて高校、大学を卒業し、某銀行に就職しました。

 その後、乳がんの人、また胃がんの人たちとかかわりをもつようになっていくのですが、そのころ(S.40年・50年代)の地方都市ではホスピスや終末期医療という言葉は、まだ私たちの耳には入りませんでした。そして、昭和52年になると、私の方が狭心症に倒れて、4・5年間入退院をくりかえし、北九州の門司に赴任しました。小さな教会でしたが、そこでまた、がんの患者さんと出会うことになりました。そのうちに、私自身が大腸がんの疑いと、脊椎症による手足の痺れを精密検査するために、北九州市内の総合病院に入院しました。外科病棟の2人部屋でしたが、40日間入院しているうちに親しくなった5人の患者さんが3人亡くなりました。退院後、リハビリに通院しながら折りをみて訪ねていた患者さんが1人亡くなりました。そういうことから、がんの問題に取り組んでいこうと考えるようになりました。はじめて会った人のことも、17歳の少年のことも記録が残っています。その後も多くの患者さん、家族、遺族とのかかわりをとうして人間の生と死、悲嘆、苦痛、喜びを共有しつつ命について、どれだけ教えていただいたかわかりません。

 長男の死と、がんの患者さん、家族、遺族とのかかわりが「がんを語る会」設立の動機となっています。はじめの患者さんとお会いしてから、34年経過し、「がんを語る会」という市民団体が設立されて以来15年になろうとしています。今日は自己紹介をかねて「語る会」設立までの経緯をおおまかに書いてみました。次号からひとつ、ひとつの事例を紹介することにしています。その人の人生が重なっている事例ですから謙虚にされてペンを執るつもりです

 厳寒の折からご自愛ください

2005年 2月16日  浜口 至

春  夏  秋  冬

―― 夕べにも光がある ――

□私は、1924(T13)年3月7日生まれ、(80歳)になりました。

大正、昭和を経て、現在平成16年ですが、戦前、戦中を知っている1人としていえるのは、同時代人が経験したことも、予想したこともなかった文化の危機、精神の危機、人間存在の危機ともいえる異常な雰囲気が世界を覆っていることです。人間の命が軽くなってきました。人工の光は夜空を美しく彩っていても、シャボン玉に似た空しさ、脆さの反映でしかありません。前の戦争では、広島の被爆で、死の淵をさまよいました。

(S.52年)以来の数年間、狭心症の発作で何度か畳を掻きむしり、うずくまって呼吸困難を耐えました。神経症と診断された右胸部の激痛に連日苦しみました。53歳から80歳の今日まで、病気と縁が切れた月はありません。そういう私が、80歳まで生きようなどと考えたことはありませんでした。

最近は、かなり体力、集中力の低下を実感しているところです。

□「余生」「老後」という言葉が目立ってきました。65歳から老人と呼ばれるようですが、職場を定年退職した人々にとって、その後の経済生活は大きな関心事でしょう。新聞、TVでは毎日のように「年金」問題がとりあげられています。私には何の楽しみもないという「生きがい喪失症候群」が急速に増加しました。

しかし、私の場合「余生」と「老後」は重大な関心事ではありません。年金をかけていないので、これについて右往左往することもなく、今のところ、車、ケイタイ電話、パソコン、インターネットの類いは、生活必需品ではありません。だれかに隠遁生活を強いられているわけではありませんが、80歳の老人にも日課があります。

 そういう日常生活の、ひとこまを紹介したいと思います。隣り町にクリスチャンホームがあって、体調がゆるす限り毎月一度、パンとブドー酒を携え妻と2人で家庭訪問をしています。3人家族で、おばあちゃんは(94)歳、息子さん夫妻は(78歳)と(69歳)です。おばあちゃんは数年前、北九州市立医療センターで大腸がんの手術をされましたが、私達が訪問するたびに、屋敷内に自生する季節の花を手折って妻に渡し、息子さんに支えられて門の外まで出て、2人が帰るのを見送られるのがふつうでした。小柄で明るい婦人ですが、年を経るごとに老いが目立つようになりました。腰が曲がり歩くのも困難です。それでも老醜はまったく感じません。お2人に抱えられて、私の横の椅子にもたれ、満面に笑みをたたえて挨拶をされます。庭に出ることもできなくなり、ベッドの時間が長くなられたようです。

 おばあちゃんの前で息子さんから、額縁入りの写真を見せられ、聖句と賛美歌が告げられました。これは、その日のために、おばあちゃんが選ばれたものです。少しずつ惚けてこられましたが美しく見事なお姿です。ここには、時間が静かに流れていて、ふっと「夕べにも光がある」という言葉が浮かんできました。

□私も妻と話しあって、額縁入りの写真を用意しました。「この写真いいだろう」「いい写真ですよ」。聖句と賛美歌は早くから決めています。生涯現役の仕事ですから、その日がいつ来るのかわかりません。妻がその時あわてないように、数名の電話番号を書きとめました。不思議なものですね。あたりまえのことをしているだけですが、あたえられている一日がとてもいとおしくなってきました。

 余裕と言ったらよいのでしょうか、「余生」も「老後」もない日常に「ゆとり」が出てきたようです。午後9時、妻と握手をして、どちらからともなく「今日は一日ありがとうございました。明日もよろしくお願いします」と感謝をこめて、おやすみの挨拶をするのが一日の終わりです。

 フラワーショップで季節の花を2,3種類買ってきて、4ヶのプランターに植えかえました。朝夕、水をそそぐのが楽しみのひとつです。通りがかりの人びとが立ちどまって、ひとしきり花談義がはずみます。「夕べにも光あり」ですね。この光は、イルミネーションの光でもなく、山頂に沈む太陽の光でもありません。人間の内なる闇を見せてくれる光です。

この光がありますから、私の老いは、人生のたそがれなどではなくて、与えられた今日を生きる希望の日々です。嬉しいですね。

 「語る会」の一年を心から感謝しています。会員のみなさん、協力してくださる医療関係者のみなさんに感謝いたします。

3月19日  浜口 至

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